消えゆくPL学園野球部。そのDNAは遠く秋田で芽吹いていた (2ページ目)

  • 菊地高弘●文・写真 text&photo by Kikuchi Takahiro

 1999年、春のセンバツでベスト4に進んだPL学園。西野はその準決勝・沖縄尚学戦で先発マウンドに上がっている。「僕にとって不甲斐なさしか残ってないんですけど......」と本人が苦笑いを隠さないように、4回途中までに6四死球と乱れ、3失点でノックアウト。チームは延長12回の激闘の末、6対8で敗れた。勝利した沖縄尚学は、続く決勝で水戸商を破り、沖縄県勢として初めて甲子園を制している。

 当時のPL学園は、3年生に田中一徳(元・横浜)、覚前昌也(元・近鉄)、七野智秀(元・横浜)、田中雅彦(ヤクルト)がおり、2年生も二塁のレギュラー・中尾敏浩(元・ヤクルト)、控え捕手の加藤領健(元・ソフトバンク)と、計6名がプロに進んだ。さらにエースの植山幸亮(元・三菱ふそう川崎→東京ガス)はその後、内野手となり、都市対抗で橋戸賞を獲得。遊撃手の足立和也(元・NTT西日本)も守備の名手として長らく活躍した。

 そんな多士済々の顔ぶれのなか、西野は背番号2ケタの控え投手として過ごした。中学時代は覚前とともに京都田辺ボーイズに所属して全国制覇。オールジャパンでもエースで4番として世界制覇を達成した「お山の大将」の西野は、PL学園で想像を超える厳しさを味わうことになる。

「入学時に84キロあった体重が、68キロまで落ちました(笑)。1学年上には上重さん(聡/現・日本テレビアナウンサー)もいて、レベルは高かったのですが、それ以前に自分の心の弱さがあって勝負ができない感じでした」

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