離島からの甲子園。28年前から続く石垣島・八重山高の試練 (3ページ目)

  • 石田雄太●文 text by Ishida Yuta
  • photo by sportiva

 八島マリンズと八重山ポニーズを指導していたのが、伊志嶺吉盛監督だ。現在の八重山商工、通称・八重商(やえしょう)の監督である。沖縄では高校野球の監督は教諭であることが一般的で、監督を外部から雇うのは稀だった。しかし当時の石垣市長は、少年野球で実績を残した伊志嶺監督を市の職員として雇い入れ、監督不在に悩んでいた八重商の監督として派遣することとした。そうすれば、石垣島の有力な中学生を沖縄本島の強豪校に持っていかれずに済む。実際、ポニーズのエースだった金城長靖(現・沖縄電力)は、数多あった沖縄本島の強豪校からの誘いを断って八重商に入学した。千葉ロッテマリーンズでローテーションの一角を担う大嶺祐太も、ポニーズから八重商に進んだ。伊志嶺監督が率いていたことで、ポニーズから7人のレギュラーが八重商に入学したのである。

 この出来事が、石垣島のパワーバランスを変えた。

 石垣島が長く甲子園出場を期待していたのは、八重高だった。八重商は1回戦負けが常の弱小校で、そんな高校に派遣された外部の監督のもとに有力な選手が集まったことで、一時期、島内では足の引っ張り合いもあったと聞く。伊志嶺監督の厳しい野球についていけない部員が一斉にやめてしまい、2人だけになって、大会に出場できなかったこともあった。練習に遅刻するのは当たり前、夏休みにはアルバイトを理由に練習をサボる部員も続出した。それでも、世界を経験した選手たちを率いた伊志嶺監督は、朝から晩まで選手に厳しい練習を課した。その結果、「百年経っても八重山から甲子園はムリさー」と言われながらも、2006年の春、ついに八重商は甲子園出場を果たしたのだった。離島から初の甲子園出場を叶えたのは、八重高ではなく、八重商だったのである。そして八重商は夏の沖縄大会も勝ち抜き、甲子園の春夏連続出場を成し遂げた。甲子園でベスト16まで勝ち上がった縦縞のユニフォームは、あっという間に全国の野球好きに馴染みとなった。

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