西武からダイエーに来た根本陸夫は、ワクワクするスカウトの前で「ETC」の話を始めた

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Sankei Visual

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根本陸夫外伝〜証言で綴る「球界の革命児」の知られざる真実
連載第32回
証言者・小川一夫(2)

 根本陸夫という人が戦力補強の中心にいる西武を、ライバル球団として見る──。1989年の初頭、ひとりの野球人がそう決意し、新たな仕事に取り組もうとしていた。同年からダイエー(現・ソフトバンク)のスカウトに就任した小川一夫である。

 小川は前身球団・南海の捕手だったが、6年間の現役生活で一軍出場は1試合。それでも、78年限りで引退したあとも球団に残ってコーチ、裏方、フロント業務をこなし、あらゆる立場でチームづくりに関わってきた。10年が経過した1988年オフ、球団が身売りされ、本拠地が大阪から福岡に移るのを機に、前任の九州担当スカウトから後継者に任命された。

 戦力補強の一端を担う仕事に就いて初めて、小川は西武を意識した。常勝巨人をしのぐ補強で王国を築いていく過程、そのなかに「根本さんのやり方」を見ていた。そうして、あらためて、スカウトとして日本一を目標に定めた。18歳でプロ入りして35歳になろうとしていた。

 ところが、それから3年後、92年オフのことだ。西武の根本がダイエーに来ることになる。いったい、どんな心境だったのか。のちにダイエーのスカウト部長、編成部長を務め、ソフトバンクでは二軍監督、編成・育成部長を歴任し、現在はGM補佐兼企画調査部アドバイザーの小川に聞く。

92年オフに西武からダイエーに来た根本陸夫(写真左)は、94年オフに王貞治を監督として招聘した92年オフに西武からダイエーに来た根本陸夫(写真左)は、94年オフに王貞治を監督として招聘したこの記事に関連する写真を見る

なぜ西武からダイエーに来たのか

「当時、ダイエーの球団社長が鵜木洋二(うのき・ようじ)さん。根本さんと同じ法政大出身ということもあったんでしょう。社長室で根本さんに電話して、相談しているのを何度か見たことがあります。というのも、僕は九州担当スカウトで、球団は福岡にある。地元にいるということで、ときどき会社に呼ばれて社長室に通されていたんです」

 鵜木は法政大柔道部出身のスポーツマンで、1964年の東京五輪では柔道代表候補選手。スーパーのダイエーが拡大を続けた時には実働部隊の元締めだったが、神戸本店室長だった88年、南海球団買収と福岡移転に関わった。ダイエー中内㓛オーナーの懐刀として初代球団社長に就き、福岡ドーム(現・福岡PayPayドーム)建設にも尽力した。

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