【自転車】片山右京「チームに加わった全日本チャンプの苦悩」 (2ページ目)

  • 西村章●構成・文 text by Nishimura Akira 甲斐啓二郎●写真 photo by Kai Keijiro

 当の土井は、加入の経緯をステージ上でこんなふうに説明した。

「日本の自転車界を盛り上げたい。若い世代に自分が走る姿を見せながら、チームが目標としている海外進出にも力を貸すことができれば、うれしく思います」

 後日、土井が明らかにしたところによると、TeamUKYOへの移籍が決定するまで、いっそレースを辞めて引退してしまおう、とも考えていたのだという。アルゴス・シマノからスポンサー事情等により翌年のシートがないと突如通告され、移籍先を探して複数のプロツアーチームとも交渉を持っていたが、条件が一致するチームはなかなか見つからずにいた。

「もう、辞めちゃおうかと思ってたんですよ、自転車を。でも、辞めたからといって特に何かすることがあるわけでもないし、将来やりたいと考えていることはあったから、ならばその間は自転車に乗っていてもいいのかな、と」

 やや照れたような笑みを浮かべながら、土井はその当時の心境を説明した。

「日本の自転車業界に対して何か自分が貢献できればとも思ったし、右京さんはヨーロッパに行きたいという夢を語っていたので、そういう意味では両者の思惑が一致した、という面もありましたよね」

 とはいえ、この当時のTeamUKYOは結成直後の弱小集団にすぎない。片山右京という元F1ドライバーがたとえビッグネームであったとしても、彼が運営するチームの姿は、欧州のトップチームで長年活動してナショナルチャンピオンジャージも着用する「日本最速ライダー」の目には、あまりに頼りないものとして映っていた。

「親がモータースポーツ好きで、自分も子どものころからF1を観ているような環境だったので、もちろん、右京さんのことは知っていました。その右京さんが、趣味で自転車に乗りはじめ、やがてレース会場で会って話をするようになり、『ああ、この人は本当に自転車が好きなんだなあ』とも感じていました。でも、自分が走ることと、チームを運営することは、まったく別じゃないですか。右京さんがチームを結成すると聞いたときには、『はァ?』って。『できるわけないじゃん、そんなの』って」

 その当時を思い出し、土井は愉快そうな表情で破顔する。自転車レースの頂点で、その世界の難しさや厳しさを隅々まで味わってきた選手にしてみれば、おそらくそれは当然すぎる反応だっただろう。

「結果的に、1年目のTeamUKYOは苦戦の連続で、『な~にしてんのかなあ、この人たち......』みたいなふうに見てました。あのときは、まさか自分がその中に入ることになるとは思わなかった(笑)」

 そのチームが圧倒的な強さを見せるのは、年が明けてシーズンが始まってからのことだ。ぶっちぎりのポイント差で個人とチームの総合優勝を獲得するのは、このときからまだ1年も先だ。加入直後の土井は、予想を超える脆弱さにフラストレーションや、あるいは憤懣(ふんまん)に近い気持ちすら抱いたかもしれない。

「とにかく、すべてが足りない。マネージメントも、選手のモチベーションも、どこを見ても足りない部分ばかりで、何から何までいろんなものをどんどん足していかなければならない、と感じました」

 土井は、欧州時代に自らを鼓舞し、鍛え上げていった強いデタミネーション(断固たる強い決意)を、TeamUKYOの若い選手たちに移植しようとした。

(次回に続く)

プロフィール

  • 片山右京

    片山右京 (かたやま・うきょう)

    1963年5月29日生まれ、神奈川県相模原市出身。1983年にFJ1600シリーズでレースデビューを果たし、1985年には全日本F3にステップアップ。1991年に全日本F3000シリーズチャンピオンとなる。その実績が認められて1992年、ラルースチームから日本人3人目のF1レギュラードライバーとして参戦。1993年にはティレルに移籍し、1994年の開幕戦ブラジルGPで5位に入賞して初ポイントを獲得。F1では1997年まで活動し、その後、ル・マン24時間耐久レースなどに参戦。一方、登山は幼いころから勤しんでおり、F1引退後はライフワークとして活動。キリマンジャロなど世界の名だたる山を登頂している。自転車はロードレースの選手として参加し始め、現在は自身の運営する「TeamUKYO」でチーム監督を務めている。

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