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【全日本大学駅伝】駒澤大が「意地の2位」で証明した底力 山川の爆走に篠原の気迫は箱根駅伝への自信に

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi

8区で圧倒的な区間賞の走りを見せた駒大・山川 Photo by Wada Satoshi8区で圧倒的な区間賞の走りを見せた駒大・山川 Photo by Wada Satoshi

史上初の全日本大学駅伝5連覇はならなかった。だが、3年生のスーパーエース、佐藤圭汰を欠き、手負いと見られていた駒澤大は、最終8区に入った時点で青山学院大と國學院大に2分30秒以上離されていた状況から、アンカー・山川拓馬の爆走もあり、青学大を抜き、優勝した國學院大にも迫り、あらためてその底力を見せつけた。

出雲駅伝に続く2位という結果も、序盤の出遅れを大きく挽回した総合力。それは、駒大にとって箱根駅伝に向けての大きな自信、ライバルにとっては脅威となるものだった。

【優勝監督も警戒し続けた山川の爆走】

 7区を終え、4秒の僅差で最終第8区につないだ1位・青山学院大と2位・國學院大がともに総合力の高さを見せつけていた。最終的には、10月の出雲駅伝を制して充実ぶりを見せている國學院大の上原琉翔(3年)が9.5kmから青学大の塩出翔太(3年)を引き離し、國学院大が全日本大学駅伝初優勝、今季2冠目を手にした。
だが、その8区で國学院大の前田康宏監督を不安にさせていたのは、青学大ではなく駒大だった。3区から7区で順位を16位から3位と挽回して迎えた8区、山川拓馬(3年)は國學院大とは2分33秒差、青学大とは2分37秒差をつけられてスタートしたが、ゴール時には國學院大に28秒差まで迫る57分09秒の爆走を見せていたからだ。

 前田監督が「山川くんが詰めてきているのを知っていたから、ゴール直前に上原の姿を見るまで勝てたとは思わなかった」と苦笑する結果だった。

 その山川は「時計をつけないのでペースは全然わからなかったが、とにかく突っ込んでそのまま一定のペースで刻み、ラストで上げるというレースプランを大八木(弘明)総監督や藤田(敦史)監督と話して決めていた」と語るように、7kmを青学大の塩出より1分早いハイペースで通過。その後もその勢いを維持していった。

「5kmの時点で前の中継車が見えたので、『もう行くしかない』と思って行き、15km過ぎくらいで(塩出の)背中が見えたので、『もう、絶対に抜いてやろう』と思った。そうしたら前に上原くんもいたので『そこも抜きたいな』という気持ちで突っ込んでいきました。(最後は)背中が見える状態での2番だったので、すごく悔しかったし、もう少し力が足りないなと思った。

 歴代の強い先輩方だったらこういうときは絶対に勝ってきただろうと思うので、そこがまだまだ自分に足りないところだと感じました」

 山川はこう悔しさを表現したが、出雲に続く2位とはいえ、駒大の底力が強烈なインパクトを与えたレースでもあった。

「強い相手に対して2分以上を引っくり返したというのは、1995年に56分59秒の区間新を出した渡辺康幸さん(当時・早大)と同等ぐらいのインパクト。これはもう、とんでもないことだと思います」と興奮気味に振り返ったのは駒大の藤田監督。

「普段の練習を見ていて、『山川はちょっと次元が違うな』という感じはしていました。ケガの多い選手なのでとにかく抑えさせたが、その余裕度が去年と比べると格段に上がっていたので『これは、全日本はとんでもない走りするぞ』と思って。だからこそ前半に(チームが波に)乗れなかったのはちょっと悔しいけど、駅伝はもう、"たら・れば"を言ってもしょうがないですから」

 出雲に続き優勝を逃した悔しさは残ったものの、山川の爆走はチームとしての手応えをつかませてくれるものでもあった。

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著者プロフィール

  • 折山淑美

    折山淑美 (おりやま・としみ)

    スポーツジャーナリスト。1953年、長野県生まれ。1992年のバルセロナ大会から五輪取材を始め、夏季・冬季ともに多数の大会をリポートしている。フィギュアスケート取材は1994年リレハンメル五輪からスタートし、2010年代はシニアデビュー後の羽生結弦の歩みを丹念に追う。

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