箱根駅伝を一度も走れず......東海大の黄金世代・羽生拓矢がそれでも競技を続ける理由 (3ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

 その箱根駅伝の前、羽生は大学4年時の箱根駅伝を走ることを目標にして冬に2カ月ほどの練習でレースに参戦。そこで29分18秒76をマークし、1年先を見据えてスタートしていたのだ。
 
「ここから1年間、ケガなく練習を積めば箱根に行ける。箱根を走るためにはそのくらいの時間が必要だと思っていました。でも、その矢先に関節を痛めて、同時に入学時からずっと痛かった足首の手術をしたんです。その後、足首はよくなって、関節のケガが治ったんですが、すぐにアキレス腱のケガをして......。それが長引いて僕の箱根が終わりました。そこからはチームにいるけど、あえて内に入らず、自分から蚊帳の外にいました」

 それでも羽生は陸上部を退部しようとは思わなかったという。

「競技がうまくいかず、しんどかったですし、投げやりになっていた時期もありましたけど、4年間という時間を約束されていたので、自分からやめることはなかったです。同期のみんなが走っている姿を見ていいなと思うことはありましたけど、自分が走れなくても日常生活では一緒に楽しい時間を過ごせていた。みんなと離れるのは寂しいなと思ったのでやめられなかったです」

 苦しい時間がつづいた羽生にとって東海大での4年間は、どういう時間だったのだろうか。

「卒業した頃は、無駄な4年間だったと思ったんです。でも、今は無駄じゃなかったと思います。あそこまで落ちきった経験は、約束された4年間がある大学生だからこそだったと思うし、ドン底を見てきているので多少のことは我慢できますし、動じることもない。僕にとっては、競技を続けるうえで必要な4年間だったと思います」

 大学時代、羽生と同様にケガで駅伝の出場機会を失い、苦しい時間を過ごした同期もいた。黄金世代がいた4年間で、出雲、全日本、箱根を制したのは、彼らの存在が大きかったからだが、一方であのメンバーがいればもっと勝てたのではないかという声もある。

「黄金世代がいても勝てなかったのは、自分も含めてケガで抜けていた選手が多かったのが大きいですね。あと、やっぱり僕らの代は意外とまとまっていなかったんです。自分もそうですが、みんな、『俺が、俺が』の選手で、『俺を使え』という選手が多かった。駅伝のメンバーから外れると投げやりになって、サポート役に徹することもなかった。駅伝でうまくいかないと『俺を使わないからでしょ』と、怒りの矛先を監督やスタッフに向けていた。そういうところがあるので、一致団結してという感じにはなかなかならかった。それが"黄金世代"と言われる僕らの本当の姿だったと思います」

■Profile
羽生拓矢(はにゅうたくや)
1997年11月8日生まれ。中学時代から全国区で活躍し、八千代松陰高校時代には全国高校駅伝に出場。2016年東海大学へと入学してからも大きな期待が寄せられたが、度重なるケガに苦しみ、3大駅伝には1年時の全日本大学駅伝のみの出場にとどまった。しかし、トヨタ紡織入社後は、5000mで高校2年生以来の自己ベストを更新し、10000mでも自己新を記録した。また、22年に行われた八王子ロングディスタンスでは日本歴代4位となる27分27秒49を打ち出し、見事復活を果たした。

プロフィール

  • 佐藤 俊

    佐藤 俊 (さとう・しゅん)

    1963年北海道生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、出版社を経て1993年にフリーランスに転向。現在は陸上(駅伝)、サッカー、卓球などさまざまなスポーツや、伝統芸能など幅広い分野を取材し、雑誌、WEB、新聞などに寄稿している。「宮本恒靖 学ぶ人」(文藝春秋)、「箱根0区を駆ける者たち」(幻冬舎)、「箱根奪取」(集英社)など著書多数。

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