箱根駅伝を一度も走れず......東海大の黄金世代・羽生拓矢がそれでも競技を続ける理由 (2ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

 それからは、故障、復帰、故障の負のサイクルを繰り返した。同期の仲間はその間、結果を出してチームの主軸になっていった。それでも、關や館澤ら主力からは、「羽生が戻ってこないと」という声が何回も聞こえてきた。それくらいチームメイトは羽生の力を認めており、復活を望んでいた。
 
「同期のみんなとは普通に仲がよくて、みんなの期待に応えたい気持ちもありました。でも、だから復帰を焦ってしまった部分もありました。故障が癒えて走り出した時、なんとか早く復帰したいという気持ちが先行してしまうんです。練習していけば、当然うまくいかないことも出てくるし、それを乗り越えて早く復帰したいと思うんですが、1、2回うまくいかないだけですぐに気持ちが折れてしまっていました」

 高校時代は、これほどメンタルが落ちることはなかった。故障は多かったがそれを受け入れ、治らないケガはないと前向きに取り組んでいた。高3の都大路の前も故障していたが、2カ月ほどで仕上げて区間2位になった。

「その成功体験をうまく大学でも生かすことができたらよかったんですけどね......。僕は別の道を探そうとか、新しいレールを探そうと思っていなかった。うまくいかなくて立ち止まった時、もうダメだなと思い込み、自暴自棄になってしまいました。精神的にもすごく幼かったなと思います」

 朝練習は顔を出すだけで、ほとんど走らなくなった。最初は主力のAチームだったが、箱根メンバー以外のBチームに落ち、やがてCチーム、故障者中心のDチームにいることが増えた。

「最初は這い上がってやろうと思っていたけど、CとかDに行くと、恥ずかしいという気持ちすらなくなり、そこにいてもなんとも思わなくなりました」

 大学3年の時、箱根駅伝で総合優勝を果たした際も何の感慨もなかった。

「1、2年の時は自分が走れない悔しさが多少はありましたけど、箱根で優勝した時は落ちるところまで落ちていたので、部員のひとりとしてチームに貢献しようという気持ちがなかった。みんな頑張っているなぁ、優勝しちゃったなぁって感じで、何か他大学が優勝しているのを見ている感じでしたね。そこに喜びも悔しさもなく、ここまで落ちたかと改めて気づきつつ、それを乗り越えようという気持ちすらない。もう終わっていました」

 だが、羽生は走ることを諦めたわけではなかった。

2 / 3

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る