箱根駅伝14年ぶりの出場に貢献した明治大学OB・岡本直己 当初のチームはバラバラ「引退したいので予選会で落ちてほしいと言う先輩もいた」 (3ページ目)
【シード権は一度も獲得できず】
3年時の箱根駅伝も1区を任された。
「2年の時、守りに入って失敗したので、3年の時は勝負を意識して臨みました」
レースは先頭集団に入り、六郷橋の下りで一度、仕掛けた。うまくハマれば、このまま逃げきれると思ったが、他大学の選手もまだ余裕があった。
「一度は目立っておきたいなと思って仕掛けたんですが、結局に6番に沈んでいって......。木原(真佐人・中央学院大・当時1年)君が区間賞を獲ったんですが、1年生に負けたのが悔しかったですね」
4年時は、エース区間の2区を任された。5区に挑戦したい気持ちもあったが、2区への憧れがあり、一度は走ってみたいと思っていた。2区は、のちに北京五輪1万m男子代表になった竹澤健介(早大)、前年1区で負けた木原らが出走したが、岡本は区間9位だった。トップの竹澤は67分46秒、岡本は69分24秒だった。レース後、タイムと順位の報告を受けてショックを受けた。
「力不足を感じましたね。全然歯が立たなかった。自分のなかでは、わりと会心の走りだったんですが、それでも9位だった。このまま実業団に入ったら数年でクビになると思っていました」
チームも総合16位に沈み、箱根を走った3年間で一度もシード権を獲得することができなかった。
「明治に行くと決めた時、1年目で箱根に出て、2年目にシード権を獲得し、3年目で上位に入り、4年目で優勝とマンガみたいなことを考えていたんです。でも、甘くなかったですね。シード権はかすりもしなかったですし、10位内にも入れず、箱根の難しさを改めて思い知らされました」
岡本は、腸脛靭帯のケガなどにも苦しみながら大学2年時から第81回、82回、83回と3回、箱根駅伝を走った。どの大会がもっとも印象に残っているのだろうか。
「やはり2年の時の1区ですね。ほんの一瞬ですが、箱根駅伝の1区でトップを走った時間があったんです。両親が沿道で応援してくれていたんですけど、その瞬間はテレビで放映されていたはずなので、地元の仲間や応援してくれる人に自分が頑張る姿を見せることができたと思うんです。自分もちょっと映りたい気持ちがありましたけど(笑)」
岡本にとって箱根駅伝は他大学のランナーと競い、自分の力を試し、ランナーとしての自分の価値を高める舞台だったが、走ることで新たに得られたこともあった。
「箱根駅伝という注目されるレースに出れば、いろんな方に応援してもらえます。『よかったね、あのレース』と言われると本当にうれしかったですし、また頑張ろうと思えた。そうして、応援してくださる人に恩返しができる。そのことを知ることができたのが、箱根駅伝でした」
箱根を通して応援してくれる人に感謝の気持ちを伝えたい。大学の時に芽生えた気持ちは、卒業して16年経った今もなお、岡本がレースを駆けるうえで大きなモチベーションになっている。
後編へ続く>>「厚底シューズと練習メニューを変更したことが大きい」マラソン引退を覚悟していたレースで優勝。40歳でのパリ五輪を目指す
著者プロフィール
佐藤 俊 (さとう・しゅん)
1963年北海道生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、出版社を経て1993年にフリーランスに転向。現在は陸上(駅伝)、サッカー、卓球などさまざまなスポーツや、伝統芸能など幅広い分野を取材し、雑誌、WEB、新聞などに寄稿している。「宮本恒靖 学ぶ人」(文藝春秋)、「箱根0区を駆ける者たち」(幻冬舎)、「箱根奪取」(集英社)など著書多数。
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