箱根駅伝14年ぶりの出場に貢献した明治大学OB・岡本直己 当初のチームはバラバラ「引退したいので予選会で落ちてほしいと言う先輩もいた」

  • 佐藤俊●文 text by Sato Shun
  • photo by YUTAKA/アフロスポーツ

2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。

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パリ五輪を目指す、元・箱根駅伝の選手たち
~HAKONE to PARIS~
第15回・岡本直己(明治大―中国電力)前編

2005~2007年の3度、箱根を駆けた岡本直己(現在は中国電力所属)2005~2007年の3度、箱根を駆けた岡本直己(現在は中国電力所属)この記事に関連する写真を見る
 昨年の大阪マラソン・びわ湖毎日マラソン統合大会は、"胸熱"のレースだった。岡本直己は、40キロ地点ではトップを走る星岳(コニカミノルタ)、今井正人(トヨタ自動車九州)らの後塵を拝していたが、残り2.195キロでラストスパートをかけて今井をかわし、5位入賞を果たした。37歳の同期対決はその記録もさることながら、マラソンファンの心を打ち、名勝負と言われた。そこで勝ち得たMGC(マラソングランドチャンピオンシップ・10月15日開催)の出場権は、岡本にとって、五輪をかけて走るレースとしては最後になる。その日、岡本はどんな思いでスタートラインに立つのだろうか──。

 岡本が由良育英高校(現鳥取中央育英高校)時代、3つの選択肢に迷いながらも進路を決めたのは、明治大学だった。

「最初は、高卒のまま実業団に入るか、ひとつ上の先輩が立命館大に行っていたので関西で走るか、それとも3校から推薦をもらっていた関東に行くのか、3つのパターンを考えていました。明治大に決めたのは、当時、故障が多かったので、万が一走れなくなった時に名のある大学に行ったほうがいいと思ったのが理由のひとつです。一番大きかったのは入学する1年前に西(弘美)さんが明治の監督に就任されて、高校の先輩の山下(聖人)さんも行かれていたんです。尊敬する先輩から、私を含めて6名の選手が明治大に入ってくるというのを聞いて、そのメンバーとだったらこれからチームを強くして、箱根駅伝を目指せると思って選びました」

 当時の明治大は、箱根駅伝から10年以上も遠ざかり、低迷していた。アルバイトをしたり、練習に出てこなかったりする学生もいて、部の雰囲気は緩い空気が流れていたという。西監督が就任後は、箱根駅伝出場を目指して、推薦で入ってきた学生を中心にチームを改革し、練習環境を整えていた。

 岡本は、チーム改革の2年目に明治大に入学した。

「私が入学した時には、箱根を目指そうという雰囲気がチーム内にありました。それでも上の先輩には気持ちが離れている人もいました。2年の時に箱根予選会を突破するんですが、10月で引退したいので予選会で落ちてほしいと言っている人もいました。でも、やる気のある選手たちが頑張ればいいと割りきってやっていました」

 西監督の「競技優先」のポリシーが、寮での暮らしや練習にも活かされた。寮で挨拶の練習をするなど、走ることに関係ない慣習はなくなり、練習はひとつ上の強い先輩が見るようになった。それでも寮則にはないおかしなルールはあった。

「先輩が部屋を出入りするたびに挨拶をしないといけないんです。部屋を出たら『失礼します』と言い、戻ってきたら『こんにちは』と言うんですが、1回何かを取りに出て、戻ってくる度に挨拶をしないといけないんで、ここまで挨拶が必要かと思っていました。さすがに今はそういうのがなくなったと聞いていますけど」

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