日本男子マラソンの礎を築いた男。高岡寿成が1万mに固執したわけ
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PLAYBACK! オリンピック名勝負―――蘇る記憶 第13回
2020年7月の東京オリンピック開幕まであと9カ月。スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典が待ち遠しい。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あのときの名シーン、名勝負を振り返ります。
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日本の男子1万mの歴代五輪入賞記録は、1936年ベルリン五輪の村社講平の4位から始まり、64年東京五輪の円谷幸吉の6位、84年ロサンゼルス五輪での金井豊の7位と続いていた。そして00年シドニー五輪では高岡寿成が7位に入り、歴史に名前を連ねた。その成果は、4年かけて高岡が狙い続けてきたものだった。
シドニー五輪で男子1万mを走る、高岡寿成 初出場は96年アトランタ五輪だった。しかし、予選第2組に出場した高岡は、「ラストに自信がなかった」と、飛び出した選手について行ってしまい、終盤で失速して12位と敗退した。
その時点では、高岡は「次はマラソンをやりたい」と考えていた。大学卒業後にカネボウを選んだのは、かつて瀬古利彦や宗茂・猛兄弟などと競り合っていた伊藤国光監督に指導してもらい、マラソンをやりたかったからだ。
だが、伊藤監督の「もう4年トラックをやって、シドニー五輪で入賞してからマラソンをやればいい」という提案を受け入れた。まだ肉体的に弱さがあり、練習であまり距離が踏めないことを、自分自身でも自覚していた。
京都・洛南高3年時の88年全国高校駅伝では、4区で区間賞を取ってチームを1位に押し上げ、同校史上最高の2位獲得に貢献。その後、地元の龍谷大に進んだ。高岡の名前が全国で知られるようになったのは、同大4年の92年7月、5000mで13分20秒43の日本記録を出してからだった。
その後、98年に5000mの記録を13分13秒40に伸ばした高岡は、2007年まで3000mと1万m、マラソンの日本記録も同時に保持した。当時の伊藤監督は、この逸材を世界で戦う選手に育てることができると考えていた。
伊藤監督は、1万mに固執した理由をこう話していた。
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