レジェンド・朝原宣治が明かす日本リレーのバトンパスの「極意」 (3ページ目)

  • 佐久間秀実●取材・文 text by Sakuma Hidemi
  • 谷本結利●撮影 photo by Tanimoto yuuri

――朝原さんは、北京五輪で満足のいく走りができましたか?

「あの時は、"走っている"というボヤッとした感覚だけがあり、いつの間にかゴールしていました。途中で他国の選手に抜かれたのも見えてはいたんですけど、まったく気にならなかった。あのようなゾーンに入ったことは、長い現役生活の中でも数回しかなかったと思います」

――朝原さんがゴールしてから順位が確定するまで、時間がかかりました。

「電光掲示板をずっと見ていて、日本が3位(2019年に1位のジャマイカの失格が決定し、繰上げによって2位に)であることがわかった瞬間、夢に見ていた光景が現実となって目の前に広がっていました」

――その瞬間まで極度の緊張感と戦っていたと思いますが、それにどのように対応していたのですか?

「僕の場合は、ある程度の緊張感があるほうが爆発力を生むことができたと思います。人によって、コントロールできること、できないことがあります。ウォーミングアップで自分の動きを修正できることがありますが、他の選手をどうにかするのは無理です。その瞬間ごとに、自分がやるべきことに集中することが大切だと思います。

過去に失敗したことを思い出したり、『ライバルと競り合うんじゃないか』と考えてしまったりすると、緊張が大きくなりすぎてしまう。僕は余計なことを考えないで、スタートのイメージを感覚的に頭の中に描くことによって集中力を持続できました」

――現在、朝原さんは兵庫県の西宮市で陸上クラブを運営していますが、そういった経験を伝えたいという思いがあったんでしょうか。

「僕は現役の時にドイツのクラブチームで陸上の練習をしていたんですが、陸上の走る練習以外の運動をやっているのを見て、日本でも同じような環境になってほしいとずっと考えていたんです。子供たちが体の成長やレベルに合わせて競技に打ち込めるように、引退後の2010年に『NOBY T & F CLUB』という地域密着型のクラブを立ち上げたんです」

――今後の展望をどのように考えていますか?

「来年に東京五輪、選手として出場する予定の2021年ワールドマスターズゲームズ(関西)も楽しみですね。いろんな形で、陸上を通じて経験してきたことを社会に還元し、スポーツの価値を高めていきたいです」
(後編につづく)

■プロフィール 朝原宣治(あさはら・のぶはる)
1972年6月21日、兵庫県生まれ。1996年アトランタ五輪100mで日本人選手として28年ぶりに準決勝に進出。2008年北京五輪4×100mリレーで銀メダルを獲得するなど、4大会連続で五輪に出場。2008年9月に引退を表明し、現在は兵庫県西宮市を拠点とした陸上クラブ「NOBY T&F CLUB」の主宰を務める。

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