2019.09.26

レジェンド・朝原宣治が明かす
日本リレーのバトンパスの「極意」

  • 佐久間秀実●取材・文 text by Sakuma Hidemi
  • 谷本結利●撮影 photo by Tanimoto yuuri

短距離界レジェンドインタビュー
朝原宣治・前編

 100m9秒台の選手が続々と登場するようになった、日本の男子短距離界の歴史を語るうえで、朝原宣治の名前は外せない。1996年アトランタ五輪の100mで日本人28年ぶりとなる準決勝に進出し、2008年の北京五輪ではリレーで銀メダルを獲得。そんなレジェンドが、快挙を達成するまでの経緯を明かす。

長く日本の短距離界をけん引した朝原宣治――長く日本の陸上短距離界をけん引されてきた朝原さんですが、そのルーツから教えていただけますか?

「中学ではハンドボール部に入って全国大会に出場しましたが、燃え尽きてしまったんですよね。それで『新しいことをやろう』と思っていた時に、友人に誘われて高校では陸上部に入りました。その頃から大学、社会人と、走幅跳びをメインにして100mもやっていたので、大会でも両方に出場していました。ただ、1999年に幅跳びの踏み切り足である左足首を骨折してしまって。その影響もあって100mに専念するようになりました」

――同志社大学時代の1993年に初めて日本記録を更新(10秒19)し、その後も記録を伸ばし続けて2001年には10秒02に。日本代表として個人でも活躍されましたが、やはり4×100mリレーでアンカーを務める姿を覚えているファンが多いと思います。

「アンカーはくじ引きで決めていた、というのは冗談で(笑)。もちろん大会ごとに選手のタイムを見ながら決めていましたが、僕はスタートとカーブがあまり速くなくて、バトンを渡すのがあまり得意じゃなかったこともあって、アンカーを担うようになったんです」

――日本のバトンパスは世界で高く評価されていますが、かなり練習したのですか?

「2000年シドニー五輪は、ケガあがりで久々にリレーに出ましたが、順調に決勝まで進みました。しかし、末續(慎吾)くんの肉離れなどもあって6位。2004年のアテネ五輪の前には、メンバー全員でバトンパスの練習を長くやりました。信頼関係が構築されていき、自分が何をすべきかがはっきりして、阿吽の呼吸でバトンパスができるようになったんです。それでも、4位に入ることはできましたけど、3位まではまだ遠い印象でした」

――そこから、4年後の北京五輪へ向けてギアを上げていったわけですね。

「いえ、僕はアテネ五輪でやりつくした感があって、『あとは練習を楽しみながら陸上生活を終えよう』と思っていました。気持ちが入らない日々を過ごす一方で、自分のレベルが下がると走るのがまったく面白くないというジレンマが続きましたね」