村岡桃佳、北京パラリンピックで金メダル。スキーと陸上の「二刀流」で「思わぬ副産物があった」 (2ページ目)

  • 荒木美晴●取材・文 text by Araki Miharu
  • photo by Paraspo/Kazuyuki Ogawa

 村岡にとって、今回の北京パラリンピックはアルペンスキーと陸上の「二刀流」の最終章である。彼女の北京大会までの道のりを振り返る。

 前回の平昌大会では5種目すべてで表彰台に上がり、名実ともに日本のエースとなった村岡。彼女が掲げた次なる目標、それは4年後の北京大会を見据えつつ、その前に夏季競技である陸上に挑戦するというものだった。彼女にとって陸上は、スキーと同様に特別な存在である。というのも、4歳の時に横断性髄膜炎で車いす生活になった村岡が、さまざまなスポーツに取り組むなかで、最初に出会った車いすスポーツが陸上だったからだ。その後、中学2年でアルペンスキーの魅力に触れて本格的に始めることにしたため陸上からは離れたが、「少し心残りがあった」と言う。

 平昌大会が終わったあと、村岡は自分の気持ちに正面から向き合った。そこで心を突き動かしたもの、それが「もう一度、陸上に真剣に取り組みたい」という気持ちだったという。もちろん、大好きなスキーを辞めるつもりはなく、あくまで見据えるのは北京である。そのゴールまでの4年間でどうすれば陸上を目指せるのかというプロセスを大事にした。

 かくして、2019年5月に陸上への挑戦を表明した村岡。だが、「二刀流」の現実は言葉で表現するより、そして自身の想像より、はるかに厳しいことだったと打ち明けている。スキーは斜面をくだることで自然にスピードが生まれるが、陸上はゼロの状態からスピードを生み出していく。百も承知のことであるが、チェアスキーとレーサーでは動作も使う筋肉もまったく異なる。「当初は準備運動についていくのも苦労した」と村岡は振り返る。

 うまくいかない悔しさを糧に練習に打ち込む日々。持ち前の根性を発揮して、レーサーで走り切る筋力と体幹を鍛えた。結果を左右するスタートの漕ぎ出しにも磨きをかけ、100mの日本記録を塗り替えるまでに実力をつけた。そして、東京パラリンピックの代表に選出され、女子100m(T54)で6位入賞を果たした。ゴールした瞬間のすがすがしさと高揚感を、村岡は「一生忘れないと思う」という言葉で表している。

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