出会う人々に導かれた京谷和幸の「車椅子バスケ人生」とは (4ページ目)

  • 文●スポルティーバ text by Sportiva
  • 写真●五十嵐和博 photo by Igarashi Kazuhiro

伊藤 そのタイミングで藤田さんのそういう姿を見るっていうのも運命的ですね。

京谷 だから、僕はその時に決めたんです。日本代表っていうのはひとつのチームだし、その日本代表が勝つためには、プレイ以外で、チームを支えていくのが、ベテランの自分の役目だと思ったんです。やっぱり、ベンチで試合に出られないようなやつらは、腐っていくんですよ。そうすると、そこからチームワークってちょっとずつ綻(ほころ)びができてくるんです。僕はシドニー、アテネ、北京で見てきていたから、そうなりそうな選手たちに、「おまえら、いつチャンスが来るか分からないから高めていこうぜ」って声をかけていました。

伊藤 そういう役回りになって良かったというか、納得できた瞬間はあったんですか?

京谷 ロンドンパラの最後のイタリア戦でありましたね。シーソーゲームが続く中、チームのモチベーションがちょっと下がっていたので、鼓舞してやろうと思ったら、僕じゃない誰か……、たぶん(藤井)新悟か誰かだと思うんですけど、僕がいろんなことを伝えてきた人間が、僕よりも先にバッと出てきて、そのとき「あ、俺もう言わなくていいんだ」と思った瞬間がありました。

伊藤 京谷さんが言ってきたことを後輩たちがちゃんと理解してくれていたんですね。

京谷 そのときに「俺、こいつらに伝えることができたかな」って思えたんです。試合の最後、宮島(徹也)がフリースローを打つ時に僕が、「徹也!胸に日の丸付けてるんだぞ」ってベンチから言ったら、あいつ2本とも決めたんですよ。それで、「ああ、俺の役目は終わった」って思いました。この4年間で、試合に出ている選手、出ていない選手、両方の気持ちが分かったことで、指導者になったときにどちらの立場の選手に対しても、伝えられることがあると学びました。

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