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【平成の名力士列伝:貴乃花】「史上最強」の呼び声も高い大横綱 「父の分け身」として鬼気迫る相撲道を歩んだ (2ページ目)

  • 荒井太郎●取材・文 text by Arai Taro

【"最期"まで貫いた鬼気迫る横綱道】

2001年1月場所で武蔵丸を破り、14場所ぶり21回目の優勝も多くの人の記憶に刻み込まれている photo by Jiji Press2001年1月場所で武蔵丸を破り、14場所ぶり21回目の優勝も多くの人の記憶に刻み込まれている photo by Jiji Press

 もっとも、15日間という長丁場の戦いは思った以上に過酷だった。十両2場所目には座骨神経痛に悩まされ、土俵上でかがんで塩を取ろうとするだけで腰に激痛が走った。休場も頭をよぎったが、懇意にしている人から「腰が痛いのなら、腰がないものと思って稽古をしなさい」と助言され、危機を乗りきり十両は3場所で通過。17歳8カ月というこれまた史上最年少入幕を果たしたが、試練はまだ続いた。

 場所前の稽古で右足親指を負傷。指の付け根がパックリと裂け「骨が見えた」という。新入幕場所初日は患部をギプスで固定して出場したが、師匠から「そんなものをはめて出るくらいなら休場しろ」と一喝され、翌日からテーピングだけで土俵に上がった。激痛が走ったが、師匠は相撲を取るうえで最も重要な足の親指をギプスで固定すれば、土俵の砂を「噛む」感覚に支障をきたしかねないと敢えて厳しく接したのだった。

 幕内デビュー場所は4勝11敗の大敗に沈み、1場所で十両へ。平成2(1990)年11月場所で再入幕を果たし、前頭13枚目で迎えた平成3(1991)年3月場所は初日から11連勝。快進撃はここから始まり、数々の年少記録を打ち立て、番付を駆け上がっていった。

 綱取りは不当な見送りもあり、横綱昇進は史上4位の若さとなる22歳3カ月。

「親父が果たせなかった夢を実現することができた」

 父子で掴んだ綱に達成感でいっぱいになったが、同時に「横綱としてやれても6年だろう。28歳で引退だな」と限界も悟っていた。ライバルの曙や武蔵丸ら、200キロを超えるハワイ勢の巨漢と毎場所やり合わなくてはならない。体に受ける衝撃や負担を考えれば、おぼろげながら"最期"も見えていた。

 平成8(1996)年3月場所から4連覇。双葉山の再来とまで言われたこの時期が貴乃花の全盛期だったが、連覇を全勝で締めくくった翌場所の11月場所は急性細菌性胃腸炎により、入門以来初の休場となる全休。場所前の秋巡業は腰を痛めて途中離脱するなど、入門以来、がむしゃらに走り続けてきて体は、悲鳴をあげていた。

 平成9(1997)年は3度の優勝を果たすが、翌年以降は休場が目立つようになった。平成10(1998)年9月場所で20回目の賜杯を抱いたあたりから「土俵に上がるのが怖くなった」と言う。その後は右肩甲骨骨折、左手薬指脱臼、左上腕二頭筋損傷とケガが重なり、2年以上も優勝から遠ざかった。その間に年齢は28歳になっていた。

 平成13(2001)年5月場所、場所中に負った右ヒザの重傷に耐えながら、22度目の優勝を成し遂げると翌場所から7場所連続全休。長期休場明けの平成14(2002)年9月場所は武蔵丸との楽日相星決戦に敗れたが、進退問題を吹き飛ばす12勝をマーク。完全復活を印象づけたが、貴乃花自身の感覚は違っていた。翌11月場所はまたも全休。年が明けた1月場所は左肩亜脱臼により、3日目から休場すると5日目から再出場。しっかり休めば体力は回復できたはずだが、気力がもう続かなかった。無謀にも見えた強行出場は「どこかで"死に場所"を探していた」という"旅路"の最終行程だった。

 同場所8日目、新鋭の安美錦に力なく送り出されると"平成の大横綱"は、30歳で土俵を降りた。

【Profile】貴乃花光司(たかのはな・こうじ)/昭和47(1972)年8月12日生まれ、東京都中野区出身/本名:花田光司/しこ名履歴:貴花田→貴ノ花→貴乃花/所属:藤島部屋→二子山部屋/初土俵:昭和63(1988)年3月場所/引退場所:平成15 (2003)年1月場所/最高位:横綱(第65代)

著者プロフィール

  • 荒井太郎

    荒井太郎 (あらい・たろう)

    1967年東京都生まれ。早稲田大学卒業。相撲ジャーナリストとして専門誌に取材執筆、連載も持つ。テレビ、ラジオ出演、コメント提供多数。『大相撲事件史』『大相撲あるある』『知れば知るほど大相撲』(舞の海氏との共著)、近著に横綱稀勢の里を描いた『愚直』など著書多数。相撲に関する書籍や番組の企画、監修なども手掛ける。早稲田大学エクステンションセンター講師、ヤフー大相撲公式コメンテーター。

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