【平成の名力士列伝:白鵬】細身の少年から大横綱の地位を築いた史上最強の力士 (2ページ目)
【大横綱としての歩み、最後は全勝優勝で幕】
周囲から注目され始めたのは、幕下で初めて6勝をマークした平成15(2003)年9月場所あたりから。翌場所も6勝を挙げ、18歳9カ月の若さで新十両を決めたときは、すでに「未来の横綱」と言われるようになっていた。十両は2場所で通過し、新入幕場所は12勝で敢闘賞を受賞。入幕3場所目の平成16年(2004)年9月場所には横綱・朝青龍と初対戦。15歳でモンゴル相撲の少年横綱に輝いた5歳上の先輩は、小学生のころから憧れの存在だったが、土俵上では怒気すら放つ横綱の威圧的なオーラに思わず怖気づいた。
「壊されないように」
無事に土俵から降りられれば、それで十分とさえ思った。初顔の一番は土俵に叩きつけられたが、翌場所の2度目の対戦では送り出しに破り、生涯唯一の金星を獲得している。殊勲インタビューでは「恩返しできて、よかったと思います」とうつむき加減で殊勝な受け答えに終始。本当は喜びを爆発させたかったが「場所後には巡業があるし、目をつけられないように」と危惧していたからだ。最強横綱にも、そんな初々しい時期があった。
北の湖、大鵬に次ぐ22歳2カ月の若さで横綱に昇進すると、横綱2場所目からは早くも一人横綱の重責を担うことになる。朝青龍が夏巡業を休場しながらモンゴルでサッカーに興じたことで2場所の出場停止処分を受けたからだ。
新横綱場所こそ11勝に終わったが、翌場所から連覇で先輩横綱不在の土俵をしっかり守り、第一人者としての責任を全うした。
「休んでいる横綱には負けられない。自分は巡業に行って稽古もして頑張ってきましたから」
平成20(2008)年1月場所は復帰した朝青龍との1敗同士による楽日相星決戦を制し、3連覇を達成。以後、大横綱への道を歩んでいく。
平成22(2010)年1月場所限りで朝青龍が引退して以降は、名実ともに角界第一人者となり、翌場所から7連覇を成し遂げ、大鵬の6連覇を抜いて新記録を樹立。その間に双葉山の69連勝という"聖域"にも迫った。稀勢の里に敗れ、連勝が63でストップすると「これが負けか」と茫然自失となったが、それも白鵬にしか吐けないコメントだ。
順調に積み重ねていった優勝回数は、ついに"角界の親父"と慕っていた昭和の大横綱・大鵬の32回を超えた。数々の歴代1位の記録を打ち立て、数字の上では文句なしの大横綱の地位を築いたが、一方でプロレス技のエルボーまがいのカチ上げ、掌底にも似た強烈な張り手、危険なダメ押しなど土俵態度も荒々しくなっていき、しばしば批判の対象にもなった。
「大鵬関は負けたら引退と思っていたようですけど、僕は"負けは死"だと思っているし、死ぬか生きるかに美しさはないと思っている。北の湖関は負けた相手に絶対に手を貸さなかったけど、死んだと思って近づいたら、まだ死んでなくて逆に刺されてこっちが死ぬかもしれない。僕の場合は(当時は)帰化してないわけだから、引退したら帰らないといけない。そういう勝負に対する思いが、時に出てしまうんだろうね」
現役晩年、ややバツが悪そうに苦笑しながら、そう語ったことがある。賛否両論、毀誉褒貶の渦を巻き起こしながら10年以上もの間、土俵に君臨し続けた絶対王者は「お前に託したという形で引退できれば」と語っていたが、それは叶わなかった。最後は全勝優勝というこれ以上ない有終の美を飾り、最強のまま土俵を降りた。
こんな横綱は、もう現れないに違いない。
【Profile】白鵬 翔(はくほう・しょう)/昭和60(1985)年3月11日生まれ、モンゴル・ウランバートル出身/本名:白鵬 翔/所属:宮城野部屋/初土俵:平成13(2001)年3月場所/引退場所:令和3 (2021)年9月場所/最高位:横綱(第69代)
著者プロフィール
荒井太郎 (あらい・たろう)
1967年東京都生まれ。早稲田大学卒業。相撲ジャーナリストとして専門誌に取材執筆、連載も持つ。テレビ、ラジオ出演、コメント提供多数。『大相撲事件史』『大相撲あるある』『知れば知るほど大相撲』(舞の海氏との共著)、近著に横綱稀勢の里を描いた『愚直』など著書多数。相撲に関する書籍や番組の企画、監修なども手掛ける。早稲田大学エクステンションセンター講師、ヤフー大相撲公式コメンテーター。
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