フェンシングはなぜ日本の「お家芸」になったのか? 東京五輪金メダリストが語る強化の20年史 (2ページ目)
以前は国内試合において、フルーレの試合が圧倒的に多かったこと。そして国民スポーツ大会でフルーレだけが毎年競技が実施されている一方で、エペとサーブルは1年おきに開催されている点も、当時の強化策の名残です。
フェンシング各種目のおおまかな違い(赤部が有効面)この記事に関連する写真を見る
僕らが東京五輪でメダルを獲得したエペは、全身が有効面になるため、当時は「身長や腕のリーチに勝る海外勢に及ばないだろう」と考えられていました。また、パリ五輪の女子団体で日本勢初のメダルを獲得したサーブルも、日本人は「体格差に加えて瞬発的なパワーが劣るだろう」とされ、強化が後回しになりました。
【「行く」のではなく「呼ぶ」。海外指導者の招聘】
日本におけるフェンシングの強化が進んだ理由として、海外から積極的にコーチを招聘した点が挙げられます。これまでも"武者修行"という名目で一部の選手は海外に活動拠点を移すケースが見られましたが、金銭面などさまざまなハードルを乗り越えなければ実現しません。
そこで、選手たちが自ら海外に出向かなくとも、本場の技術を学ぶことができる環境を整えたことにより、競技力の底上げに繋がったと思います。また、外国人コーチが持つルートを駆使することによって、世界のトップを知る方々と触れ合う機会が増えるなど、非常に大きな効果があったと思っています。
日本に初めて招聘された外国人コーチは、2003年のオレグ・マツェイチュク氏(ウクライナ)でした。
同氏の担当種目はフルーレで、太田さんを筆頭とする日本人選手の強化や五輪メダル獲得に大きく貢献することになり、その後のエペ、サーブルの強化も、この成功モデルを参考にしながら進められていきました。
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【HPSCによる競技力向上やハイパフォーマンス・サポート】
フェンシング競技でオリンピックを目指す拠点となっているのが、東京都北区西が丘に拠点を構える「ハイパフォーマンススポーツセンター(HPSC)」です。代表に選ばれた選手たちは、ここでさまざまなサポートを受けながら練習に励み、世界の舞台で活躍できるレベルへと成長していくこととなります。
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