日本フェンシングが「交代選手」の活躍もあってパリ五輪でメダルラッシュ その熱を今後にどうつなげるべきか (2ページ目)

  • 白鳥純一●取材・文 text by Shiratori Junichi

――永野選手は前回の東京大会にも交代選手として出場し、チームは4位の成績でした。宇山さんも前回大会では同じ交代選手でしたが、何かやりとりがありましたか?

「(東京五輪では)本来ならばスーツケースに入れて選手たちに配布されるはずの支給品が、僕ら交代選手だけは段ボールに煩雑に入れられて渡されたことがあって。永野選手と一緒に『僕らの処遇はこんなものなんだ......』と嘆いたことを覚えています。

 僕らが金メダルを獲得したあと、翌日に団体戦を控えていた男子フルーレのメンバーに結果を伝えるタイミングがあって。祝福の言葉をかけてくれた永野選手に『絶対に腐るんじゃないぞ』と声をかけました。東京五輪で男子フルーレは3位決定戦に敗れて4位に終わり、メダルには手が届きませんでしたが、パリで永野選手の努力が報われて僕もうれしいです」

【メダルラッシュを次の世代へ】

――引退した宇山さんに代わり、交代選手としてエペ団体に加わった古俣聖選手には何か声をかけましたか?

「古俣選手に対しては、選出が決まった時に祝福の言葉と、『単なる4番目の選手ではなく、劣勢の状況を跳ね返せるにはどうすればいいのか。交代選手としての役割をしっかり考えて、それを踏まえた準備してほしい』というアドバイスを送りました。惜しくも2大会連続の金メダルとはなりませんでしたが、第1戦の途中から出場した古俣選手は決勝のハンガリー戦でも健闘しましたし、すばらしいパフォーマンスを見せてくれました」

――女子サーブル団体も、交代選手の尾﨑世梨選手が活躍して銅メダルを獲得。パリ五輪ではフェンシングのメダリストが16人も誕生する結果となりました。

「僕が中学生で競技を始めた頃は、フェンシングでメダルを獲得した日本人選手がまだいなかったので、『五輪のメダリストになりたい』とは思いつつも、どこか『本当になれるのか』と疑問を抱きながら競技を続けている部分がありました。ですが、2008年の北京五輪・男子個人フルーレで太田雄貴さんが日本人として初めての銀メダルを獲得してからは、日本人でもメダルが獲れることを知った子どもたちが『太田選手のようにフェンシングでメダルを獲りたい』と夢を描くようになりました。

 今、現役選手として活躍している20代前半から中盤に差し掛かる世代は、ちょうど太田さんの活躍を子どもの頃に見ていた世代。競技に対する捉え方や、自信については僕らの世代とはだいぶ異なる印象があります。

2 / 3

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る