モーグル里谷多英、長野五輪金メダル獲得の真相。気持ちを入れ替えた「2つの出来事」 (4ページ目)

  • 佐藤 俊●取材・文 text by Sato Shun
  • 藤巻 剛●撮影 photo by Fujimaki Goh

「自分の知らないところで、知らない人に知らないことを言われて、自分の耳に入ってくることはいろいろありました。でも、それは明らかに私のことではない話だったりするので、あまり気にしていませんでした。だから、嫌というか、困ったなと思うこともなかったですね。五輪に出て世間に名前が広まって『有名になったから仕方がない』とは思いませんが、そういうものだなって思っていました。

 ただ今思うと、(自分が)金メダリストであるとか、そういう意識があまりなく行動していたので、もう少しその自覚があればよかったのかな、と思いますね(苦笑)」

――競技生活においても負傷などがあったりして、いろんな苦労があったと思います。

「30代になって、バンクーバー五輪を目指そうと思った時、『若手にシフトしたい』といったニュアンスのことを(全日本スキー連盟の方から)暗に言われたことがありました。もちろん、大会での成績がずば抜けているとか、若い子たちが30歳すぎの私と同じ成績なら、そうした若手にチャンスをあげるべきだと思います。

 でも、成績は関係なく、年齢だけで代表を選ぶのはどうかと思うんです。大会での結果が私よりも低くて、W杯でも成績を出せていない若い子に(代表の座を)譲る、というのは納得できなくて(連盟に)直談判しにいったことがあります。それで、W杯の成績で決めるとか、『30代以降の選手に厳しい基準でもいいですし、私だけ厳しい基準でもいいので、後出しで代表を決めるのではなく、事前に五輪出場の判断基準を明確にしてください』と言ったら、バンクーバー五輪の前には『全日本選手権で優勝』といった、その時だけの、私だけのルールみたいのができたりしました(苦笑)」

――結局、里谷さんはあらゆる大会で成績を残して、バンクーバーで5大会連続の五輪出場を果たしました。そうしたルールを決めた人たちを「見返したい」といった気持ちがありましたか。

「それはありました。でも、これはあとで思ったことなんですけど、『見返してやろう』とか、そういう気持ちでスキーをしていると、いろんなことがズレてしまって結果に結びつかないんですよね。先ほど言った『ここでいちばんいい滑りをしたい』という純粋な気持ちを失って、そういう気持ちばかりしかなかったので、最後の五輪では思うような滑りができず、いい成績も残せませんでした」

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