【バドミントン】20歳の桃田賢斗が語る東京五輪への思い (2ページ目)

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi
  • photo by Sportiva

「自分のイメージでは、強い人はガンガン練習をしてずっとバドミントンのことを考えているのかなと思ったけど、インドネシアのスタイルはそうではなくてオンとオフがハッキリしていました。なので楽しかったし、小学校のときより練習をしたいなという気持ちになりました」と桃田は言う。

「柔らかいショットはインドネシア人特有のものだと思うけど、いろんな発想とか、いろんなショットがあって。コーチの球を受けている時は『こんなショットもあるんだ』と驚くことだらけでした。それを真似するようになって自分のプレイの幅が広がったし、毎日新鮮な気持ちでバドミントンができていました」

 富岡高校との中高一貫スタイルで、毎日高校生と練習ができる環境というのも大きかった。高校生にはなかなか勝てず、その悔しさから、次こそは勝ちたいと思って工夫する。インドネシア人コーチがいたからこそ、その工夫の幅が広がり、今のプレイスタイルができた。そこで一気に成長した桃田は3年生で全国中学校バドミントン大会を制し、全日本総合選手権には男子史上初の中学生選手として予選に出場した。

 だが、そんな順調なバドミントン人生に衝撃を与えたのは、桃田が高校2年に上がる直前の2011年3月11日に起こった東日本大震災だった。桃田は、武者修行で練習に行っていたインドネシアで大震災を知り急遽帰国。しかし、福島県にある富岡高校には原発事故の影響で戻れず、香川県の実家に帰った。

「友達とも連絡が取れなくなったりして、精神的なダメージはけっこう大きかったですね。1週間くらいは何もせず、もう(バドミントンは)できないんじゃないかとまで考えていました。でも高校の先生が色んなところに声をかけてくれて、実業団チームで練習ができるようにしてくれたんです」

 猪苗代高校の空き教室を借りて富岡高校の授業が再開されるようになると高校に戻った。帰って来られない仲間もいたが、バドミントン部は再開した。

「みんな同じ気持ちで帰って来たと思うので、前より絆も深まって充実していました。学校も簡単に再開できたわけではなくいろんな人たちの協力があってのことだから、『感謝の気持ちを持って練習や試合に取り組もう』という気持ちになれた」と桃田は言う。その気持ちを彼は、同年世界ジュニア3位や翌12年の世界ジュニア優勝などの結果で伝えることができた。そしてこれからも、自分の活躍でその気持ちを伝え続けて行きたいという。

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