【アイススレッジホッケー】ソチパラリンピック出場逃す。浮き彫りになった問題点 (2ページ目)
アイススレッジホッケーは1994年のリレハンメルパラリンピックから正式種目として採用された。98年の長野大会に向けて日本チームが発足した当時は、"まだ新しいスポーツ"として発展途上にある印象だったが、2006年トリノ大会を前に変化が表れた。用具の開発が進むと同時に、各国がいわゆる健常者のアイスホッケーの戦略やプレースタイルを取り入れ、競技性が大きく向上したのだ。
世界の変化に日本が対応するためには、国内合宿だけではなく、とにかく実践を積む必要があった。そこで、04年に就任した中北浩仁監督が手腕を発揮。英語力と営業マンとして培った交渉力で強豪チームとの招待試合や遠征の交渉をし、またネックだった渡航費などの費用は、自身が勤務する日立製作所とグループ会社からの支援を取り付けることで、捻出した。
ノルウェーとの試合では、体格に勝る海外勢の当たりの強さを嫌というほど体験し、アメリカからはスピードの重要性を、カナダからはホッケーの精神を学んだ。その大事な経験をもとにして戦略を組み立て、心技共に充実したところで臨んだのが、銀メダルを獲得したバンクーバー大会だったのだ。
世界のアイススレッジホッケーはこのバンクーバー後、再び、変化の時を迎えている。「戦い方が明らかに変わってきている」とは、中北浩仁監督。「どの国も、軒並みフィジカルの強化を図り、オフェンスのタフさをこれまで以上に身につけてきている」というのだ。「これまで(技術もあり小回りが利くタイプの)日本選手は相手をかわしてフェンス際をすり抜けることもできたが、それが通用しなくなった。(豊富な運動量は日本の自慢だったが)基礎体力(のトレーニング方法も)も見直さなければならない」との中北監督の言葉に危機感が滲んでいた。
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