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小説『アイスリンクの導き』第17話 「ゾーン」 (3ページ目)

「いや、どういう意味ですかね? まさにゾーンに入る、という感じなんですが。なんとなく、そんな気がするという表現で。周りがゆっくりと見えるんですよ。不思議ですけど」

 翔平は精一杯、答えた。

「最後にフリーに向けて、意気込みを。三浦富美也選手は棄権とのことで、優勝もかかっていますが」

 年配の女性記者が言った。

「えっ、富美也が棄権ってどういうことですか?」

 翔平の方が逆に質問した。何が起きたのか、まったく知らなかった

「三浦選手は演技の最後に大ケガをして、病院に搬送されたそうです」

「そうなんですか......」

 翔平はプログラムを演じることだけに、すべての集中力を使っていた。周りで起こったことも、まったく目に入ってこなかった。すべての情報を遮断するような状態に入れたからこそ、プログラムを演じ切ることができた。

「あの、フリーに向けての言葉を......」

 翔平はそう促されて、我に返った。

「フリーは、思い入れのあるプログラム『オペラ座の怪人』なので、その世界観を皆さんにたっぷりとお届けできるように頑張ります。今の自分のできる限りの演技を」

 定型の答えで、「ありがとうございました」と頭を下げる。

 そこで、「フリーも頑張ってください!」と顔見知りの女性記者に励まされた。ショートの演技の高揚感が、彼女にも伝わっている様子だった。一度目に現役だった時も、自分の取材に継続的に来てくれていた人だろう。スケートの世界は狭いだけにつながりが強く、そこに思いがこもっているのだ。

 翔平は、氷の世界の住人である。今日は、フィギュアの神様の慈悲で限界を超えた演技ができた。その縛りで、膝も悲鳴を上げているのかもしれない。そう考えると、得たものと失ったものの納得がいった。

 次のフリーは、本当に4分間を滑り終えることができるか。それは自分との格闘になるだろう。今のところ、歩けることに感謝した。

著者プロフィール

  • 小宮良之

    小宮良之 (こみやよしゆき)

    スポーツライター。1972年生まれ、横浜出身。大学卒業後にバルセロナに渡り、スポーツライターに。語学力を駆使して五輪、W杯を現地取材後、06年に帰国。著書は20冊以上で『導かれし者』(角川文庫)、『アンチ・ドロップアウト』(集英社)など。『ラストシュート 絆を忘れない』(角川文庫)で小説家デビューし、2020年12月には『氷上のフェニックス』(角川文庫)を刊行。パリ五輪ではバレーボールを中心に取材。

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