坂本花織、常に勝利を期待される経験が財産に「無になって集中」して全日本3連覇
【引きずっていた体調不良】
「全日本選手権3連覇」。坂本花織(シスメックス)はその目標を公言し、自らにプレッシャーをかけ、そして女王のプライドを前面に押し出した。そして、宣言どおり優勝。前回大会の自身の得点もわずかに上回った。
全日本選手権3連覇を果たした坂本花織この記事に関連する写真を見る だが、中野園子コーチによれば、全日本の2週間前に行なわれたグランプリ(GP)ファイナルのあとから坂本は体調不良を引きずっていた。坂本自身も、12月22日のショートプログラム(SP)2日前の取材で「体調を崩してしまって、調子も状態もすべて落ちてしまった。試合までには完全復活できたら」と明かしていた。
SPは、坂本に追いすがると期待されていた住吉りをんや吉田陽菜がミスでそれぞれ17位と9位と出遅れ。島田麻央や渡辺倫果といった上位候補もジャンプのミスで得点を伸ばせなかった。会場に重い空気感が立ち込めるなかで坂本の演技。慣れない最終組1番滑走だった。しかし本番になれば、そんな不安を微塵も見せなかった。
「今季はほとんどが最終滑走だったので、6分間練習前の(ウォーミング)アップを7〜8割くらいにして、あとの2〜3割を6分間練習が終わったあとにするルーティンができていました。アップの時点で100%に仕上げているというのが久しぶりだったので、なんか変な感覚で、これでいけるやろうかって感じだった」
安定のダブルアクセルからスタートし、課題の3回転ルッツは少しエッジングが危なく見えたものの、1.18点の加点。「練習ではいいものが跳べるようになっていた」と坂本。そのあとも不安のない滑りでGOE(出来ばえ点)を加え、出場選手中唯一の70点台の78.78点で1位発進した。
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プロフィール
折山淑美 (おりやま・としみ)
スポーツジャーナリスト。1953年、長野県生まれ。1992年のバルセロナ大会から五輪取材を始め、夏季・冬季ともに多数の大会をリポートしている。フィギュアスケート取材は1994年リレハンメル五輪からスタートし、2010年代はシニアデビュー後の羽生結弦の歩みを丹念に追う。