検索

日本ボクシング世界王者列伝(番外編):坂本博之 4度の世界王座挑戦は実らずも、苦難を乗り越えた「熱情」で歩み続ける人生の勝者 (3ページ目)

  • 宮崎正博●文 text by Miyazaki Masahiro

【最後の一枚の扉はあまりに分厚かった】

 連戦連勝で新人王戦を制したころから、リングサイド雀たちは騒ぎ出す。

「あの男、何かが違う」。パンチが強いとかだけじゃない。オーラがすでにある。野心の輝きというものなのか。最強のボクサーに必須のキラー・インスティンクト(闘争本能)がその戦いにはあふれていた。

 13戦目となる1993年暮れの戦いでは、リック吉村(石川)を9ラウンドでTKOに破り、日本ライト級王座を獲得した。米軍の黒人兵だったリックはその後、このタイトルを取り戻し、22度も守る名チャンピオンになった。翌年にはスーパーライト級に上げて、このクラスの不動の日本王者だった桑田弘(進光)を10ラウンドに倒す。1995年には前世界スーパーライト級王者ファン・マルティン・コッジ(アルゼンチン)にプロ20戦目にして初黒星を喫したものの、同年、辰吉丈一郎(大阪帝拳)とともに米国ネバダ州ラスベガスに飛び、あのフロイド・メイウェザー・ジュニア(アメリカ)の叔父にあたる強豪ジェフ・メイウェザーに勝つ。もはやプロボクシングという世界で行っていない場所は、世界チャンピオンの居留区以外にはなくなった。

 しかし、結果的には坂本はそのあとの一歩が踏み越えられなかった。ライト級の世界王座に4度挑み、いずれも跳ね返されてしまうのだ。

 1997年、堅調な技巧派サウスポーながら決定打に欠くWBC王者スティービー・ジョンストン(アメリカ)に1−2の判定負け。翌年、そのジョンストンに勝ったセサール・バサン(メキシコ)の長身(180cm)にはリーチ差を打ち破れずに完敗。さらに2000年3月、WBA王者ヒルベルト・セラノ(ベネズエラ)には初回に2度もダウンを奪って、会場の両国国技館の観客を総立ちにさせたが、セラノに長いジャブと右ストレートを狙い打ちされ、右目が大きく腫れ上がり負傷TKO負け。そして、冒頭の畑山戦の敗退へとつながる。

 ここまでで坂本の世界制覇の野望は断たれてしまったが、リングをあきらめることはなかった。だが、椎間板ヘルニアの持病もあって、苦しい戦いが続く。2007年、ついに現役生活をあきらめた。

 引退後はSRSボクシングジムを運営しながら、社会奉仕活動を続ける。「これほどに応援してもらったのだから、自分は勝者」と自身が巣立った福岡市の児童養護施設『和白青松園』の子どもたちが作る手製チャンピオンベルトを誇らしげに腰にする。

「人生には敗者のほうが多い」。それでも、希望を持って自分の明日を探すことが大事。だからこそ「何かあったら、さかもっちゃんに相談してほしい。話してほしい」。

 世界王者にはなれなかったけど、苦難を乗り越えて人生を勝ち抜いた坂本なら、きっと、よりよい答えを用意してくれる。

さかもと ひろゆき●1970年12月30日生まれ、福岡県田川市出身。児童養護施設に育ち、小学生時代にボクサーを目指すようになる。20歳のときにプロデビュー。170cmのがっちりした体から繰り出す強打で全日本新人王、日本ライト級王座を無敗のまま獲得。96年には東洋太平洋ライト級王座を手にし、その翌年から3度、世界挑戦を繰り返すが、いずれも敗れた。2000年にはWBA世界ライト級チャンピオンとなっていた畑山隆則(横浜光)相手に4度目の世界挑戦。大きな注目を集めた一戦に10ラウンドTKOで敗れた。2007年まで現役を続け、引退後はSRSボクシングジムを主宰しながら、積極的に社会奉仕活動も行っている。現役時代は勝又ジムを経て、のちに角海老宝石ジムに所属。右のファイター型。47戦39勝(29KO)7敗1分。

著者プロフィール

  • 宮崎正博

    宮崎正博 (みやざき・まさひろ)

    20歳代にボクシングの取材を開始。1984年にベースボールマガジン社に入社、ボクシング・マガジン編集部に配属された。その後、フリーに転身し、野球など多数のスポーツを取材、CSボクシング番組の解説もつとめる。2005年にボクシング・マガジンに復帰し、編集長を経て、再びフリーランスに。現在は郷里の山口県に在住。

3 / 3

キーワード

このページのトップに戻る