初代タイガーマスク・佐山聡が残した偉業の数々 元東スポ記者が「手作りマスク」、総合格闘技の取り組みの裏側を明かした (2ページ目)
――タイガーマスクとしてマスクを被ることを、ですか?
柴田:もともと、佐山さんはマスクマンになりたくてプロレスラーになったわけじゃないですから。佐山さんが新日本に入門したのは1975年5月で、翌年にアントニオ猪木さんの付き人になった。「プロレスは最強の格闘技」とする猪木さんの影響もあって、キックボクシングの「目白ジム」に入門して、新日本と並行で汗を流していました。
1980年10月にはイギリスでデビュー。ブルース・リーの親戚という設定で「サミー・リー」というリングネームで活躍しました。飛び技や蹴り技で人気も高かったですし、当時チャンピオンだったマーク・ロコへの挑戦も決まっていました。
――マーク・ロコ選手は、のちに初代ブラック・タイガーとして新日本に参戦しましたね。
柴田:佐山さんは、海外で人気が出たのに、マスクを被って日本で戦うことに意味を見出せなかった。だけど、「1試合だけならいい」と虎のマスクを被って、蔵前国技館のリングに登場したんでしょう。
あとで佐山さん本人に聞いた話ですけど、「マスクを被っちゃえば、自分はどうなっているのかわからないし、他人からどのように見えているのかは気にならない。ただ、視界が悪くて泣きそうになったよ(苦笑)」と振り返っていました。マスク作りを手伝った関係者は「耳がずれたり、小さくてごめんなさい」と謝ったそうなんですが、佐山さんは「いやいや、大丈夫ですよ。ただ、見えなかったことがつらかったです」と答えたらしいです。
【「マスク」ビジネスが生まれるきっかけに】
――そもそも、なぜマスクは手作りになったんでしょうか?
柴田:それまで、日本にマスクを専門に作る職人がいなかったんです。日本人のマスクマンは少なかったですし。服飾関係の会社が片手間でやることはあったかもしれませんね。
タイガーマスクも1度きりの計画でしたからね。それが、人気大爆発で継続参戦することになったから、「さすがにちゃんとしたものを作ろう」ってことで、玩具メーカーの「ポピー」に依頼したんです。
――バンダイナムコグループの会社でしたね。懐かしい名前です。
柴田:マスクだけじゃなくて、コスチュームも製作していました。それ以降、いろんなマスク業者が誕生しました。ある意味、ひとつの革命ですよ。新たなビジネスが生まれ、プロレスのファイトスタイルも変化していきました。
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