三沢光晴が自分の技を受けた後に急逝  齋藤彰俊が明かす、2カ月後に受け取った手紙に誓った決意

  • 松岡健治●取材・文 text by Matsuoka Kenji

齋藤彰俊 引退インタビュー

「記憶に残る3試合」2試合目

(1試合目:小林邦昭戦で感じた本物のプロレスラーの「強さ」>>)

 11月17日に愛知・ドルフィンズアリーナ(愛知県体育館)で引退試合を行なう、プロレスリング・ノアの齋藤彰俊。引退試合を前に齋藤が振り返る、記憶に残る「三番勝負」の2試合目は、三沢光晴さんとのラストマッチとその後について明かした。

2009年6月13日、三沢光晴(上)の技を受ける齋藤彰俊。これが三沢のラストマッチになった photo by 東京スポーツ/アフロ2009年6月13日、三沢光晴(上)の技を受ける齋藤彰俊。これが三沢のラストマッチになった photo by 東京スポーツ/アフロこの記事に関連する写真を見る

【三沢が緊急搬送。病室で過ごした長い夜】

 2009年6月13日、広島。15年前の「あの時」を打ち明ける際、齋藤は「約束」という言葉を繰り返した。

「どんなことがあっても、何があっても自分がすべて受け止めると三沢さんと約束したんです。今も、自分がリングに立つことで嫌な思いをする方はいらっしゃると思います。そのすべてを受け止めます。理解していただくことができない方々もいらっしゃると思いますが、三沢さんに誓ったことですから」

 その試合は、バイソン・スミスと組んで三沢と潮崎豪の挑戦を受けるGHCタッグ選手権だった。20分過ぎ。齋藤は三沢をバックドロップで投げた。すると、どんなに過酷な技を浴びても受け、立ち上がってきた三沢が動かない。意識を失っていた。あまりの異変に、若手選手がリングに上がって回復を図る。観客から「三沢コール」と悲鳴が上がるなか、ドクターが心臓の蘇生措置を行なった。

 試合は27分03秒、レフェリーストップで齋藤が勝利したことをリングアナウンサーが告げた。救急隊が到着し、三沢は広島市内の病院に搬送された。そして午後10時10分。三沢はこの世を去った。死因は「頚髄離断」。齋藤は、三沢が搬送された病院の廊下で医師から「亡くなりました」と告げられた。

「三沢さんが搬送されて、自分もすぐにタクシーで病院に向かい、そこで警察の事情聴取を受けました。その間も蘇生措置が続いていましたが、しばらく経ってお医者さんから『亡くなりました』と宣告されました。信じられませんでした。あの三沢さんが......。目をつぶり、『これは夢なのか』とも思いました。ものすごい衝撃と現実をたたきつけられました」

 広島県警の事情聴取は、意識を失ったのが齋藤のバックドロップを受けた直後だったため、事件性を調べるための対応だった。

「警察の方から『事件性はない』と判断されて、自分は朝までお医者さんの許可をいただき、三沢さんと同じ部屋にいさせてもらいました。病室で三沢さんと対面した時、まず心のなかで『すみませんでした』と謝りました。

 声に出すと、部屋にいらっしゃった他の方々の心を乱してしまうと思ったので、何度も胸のなかで謝り続けました。そして、亡くなったことを宣告されても24時間以内は"戻ってくる"こともあると聞いていました。『なんとか、なんとか生き返ってください』と願いながら朝まで過ごしました」

 しかし、三沢が再び呼吸することはなかった。長い長い夜だった。

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