ハンセンがいきなり全日本のリングに。ホーガンの移籍ドタキャンで結成されたブロディとの「最強タッグ」 (3ページ目)

  • 松岡健治●文 text by Matsuoka Kenji
  • photo by Tokyo Sports/AFLO

 リング上では、ウエスタンラリアットを振り回して猛威を振るっていたが、実は極度の近視で視力が悪かった。

「試合中はコンタクトもしてないから、ラリアットがどこに当たるかわからない。だから相手は怖がっていましたよ。馬場さんも『あいつは、どこへ突っ込んでいくかわからない』と苦笑いしていました。

 お客さんにも迷惑をかけてね。一度、大阪の試合での入場で、トレードマークだったブルロープを振り回したら、最前列に座っていたおばあちゃんに当たってしまって。さすがにハンセンも『マズイ』と思ったのか、リングサイドを一周したあとにおばあちゃんのところに行って、耳元で『ごめんなさい』と囁いて謝っていましたよ(笑)」

 そして試合から離れると、意外な行動を見せていたという。

「彼は地方に行くと、ひとりでお寺を巡るのが好きでね。俺も、お寺でハンセンを何度か見たことがありました。スタッフに聞いた話では、日本の神社仏閣が好きで、時間があればお寺を回っていたそうです。もしかしたら、日本人よりもいろんな寺や神社に行っているかもしれないね」

 そんなハンセンは、自分の試合を和田がレフェリングすることに難色を示していたという。1972年の旗揚げから1980年代中盤まで、全日本のメインレフェリーはジョー樋口で、和田は"その下"だった。

「ハンセンと俺には、簡単に言うと信頼関係がなかったんです。ハンセンには『俺の試合を裁くのは、ジョーさんだ』というプライドがあって、『和田京平は格下だ』みたいな感じだったんだと思います」

 ハンセンが和田への態度を変えたのは、馬場が亡くなり、2000年6月に三沢光晴らが大量離脱して「プロレスリング・ノア」を旗揚げし、全日本が分裂した時だった。分裂直後のシリーズに参戦したハンセンが、団体に残留した和田を見た時に感激を露わにしたという。

「控室でハンセンが俺を見て、向こうから握手を求めてきたんです。『お前は、三沢と仲がよかったのになんで残ったんだ』と感動してくれて、『お前は裏切らなかったのか』って手を握りしめられてね。その時、初めてハンセンから認められたんです。それからは、俺が試合を裁くことも快く受け入れてくれましたよ」

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