力道山が刺された日。妻が聞いたアントニオ猪木を認める言葉と幻の計画
力道山の妻が語る「馬場・猪木」の記憶 後編
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戦後、プロレスラーとして多くの日本国民に勇気を与えた力道山。その妻である田中敬子さんは、弟子のジャイアント馬場(本名・馬場正平)について回想したのち、「主人が気にかけていたのは猪木さん」と、もうひとりの偉大な弟子について話し始めた。
中学時代、家族と共にブラジルへと移住したアントニオ猪木(本名・猪木寛至)。17歳の時に陸上競技で活躍していたところが力道山の目に留まり、現地でスカウトされて昭和35年4月に日本プロレスへ入門した。
力道山の餅つきを見守るアントニオ猪木(左から2人目)、ジャイアント馬場(左から3人目)たち(写真/妻・田中敬子さん提供) 東京・浜町の道場で開かれた会見では、読売ジャイアンツの投手からプロレスに転向したジャイアント馬場と共に入門が発表され、デビュー戦も同じ同年9月30日だった。台東区体育館で行なわれた初陣で、馬場は田中米太郎に快勝し、猪木は大木金太郎に敗れた。
馬場はそれからわずか10カ月後、当時の若手の出世コースだったアメリカ武者修業に出発するという破格の待遇。一方の猪木は、前座レスラーのひとりとして力道山の付け人になった。のちに「ライバル」と評された馬場と猪木だが、プロレスラーとしての出発点は、明らかな格差をつけられていた。
猪木は、さまざまなインタビューで付け人時代を聞かれるたびに、「毎日、ただ殴られていただけ。そこに理由なんかなかった」と振り返り、力道山から教えられたものは「何もない」と言い切る。理不尽な力道山からの指導に対し、妻の敬子さんは違う印象を持っていた。
「主人は、何かあると『アゴを呼べ』と言って、しょっちゅう猪木さんを自宅に呼んでいました。部屋に猪木さんを呼ぶと肩を揉ませていたんですが、その時にプロレス以外の事業、仕事の打ち合わせをしたり書類を読んだりしていて、インタビューも猪木さんがいる前で何度も受けていましたね。
おそらく主人は、わざと猪木さんにそういうところを見せていたんだと思います。主人が自宅に呼んでいた若手選手は、猪木さんだけでしたから。それだけ猪木さんのことを信用していたし、期待していたという証明だと思います。そんな姿を見ていたから、猪木さんも、主人と同じようにプロレス以外の事業への思いが膨らんだんじゃないでしょうか」
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