2019.08.09

古賀稔彦は絶体絶命から勝ち取った!
バルセロナ五輪金メダルの凄み

  • 折山淑美●文 text by Oriyama Toshimi
  • photo by Koji Aoki/AFLO SPORT

PLAYBACK! オリンピック名勝負———蘇る記憶 第3回

東京オリンピックまで、あと1年。スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典が待ち遠しい。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あのときの名シーン、名勝負を振り返ります。

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 1992年バルセロナ五輪7日目。7月31日に行なわれた柔道男子71kg級の試合で、観客席から見る古賀稔彦の姿には、これまでの彼になかったような緊張した様子が感じられた。

優勝を決めた瞬間の古賀の表情は、多くの人の記憶に残っている 初戦の2回戦は、開始20秒に巴投げで一本勝ちした。だが、次の試合では前半に巴投げや返し技で攻め、得意の投げ技を繰り出し始めたのは中盤から。いつもの古賀らしさが少し影を潜めていた。その原因は、彼が左ヒザの靭帯を負傷していたことにあった。

 常に一本を取りに行く柔道と、切れ味鋭い投げ技で高校時代から活躍していた古賀は、86年には世界ジュニアで優勝。一本背負いが得意技だったこともあって、”平成の三四郎”と呼ばれ、期待を集めていた。初出場だった88年ソウル五輪では3回戦で敗退する予想外の結果だったが、翌年の世界選手権で優勝すると、91年世界選手権バルセロナ大会でも危なげなく連覇を決めた。バルセロナ五輪では絶対的な優勝候補になり、24歳という若さで選手団団長を任されるほどの傑出した存在だった。

 だが、古賀はバルセロナ入り後の練習で左ヒザを痛め、3週間の安静が必要と診断されていたのだ。後の診断で「左ヒザ内側側副靭帯損傷」と判明するほどのケガ。78kg級代表の吉田秀彦を相手に乱取りをしていたところ、背負い投げを掛けようとして足が滑り、ヒザを痛めたのだ。ちなみに吉田は、古賀の後輩。古賀は中学入学と同時に佐賀県から上京して柔道塾・講道学舎に入塾し、中・高時代を吉田と共に過ごした。

 練習場のマットが滑りやすかったことが、ケガの原因だった。この負傷以降、試合までの10日間は練習ができなかった。そのため、5kgの減量はほとんど飲まず食わずの状態でやった、という。本番は、いつもよりきつめのテーピングで損傷個所を保護し、痛み止めの注射を打って臨んだ。