【国際プロレス伝】失意のカール・ゴッチは「国際のリング」で蘇った (3ページ目)

  • 宮崎俊哉●取材・文 text by Miyazaki Toshiya
  • photo by AFLO

 レスラーとして不遇だったそんなゴッチを蘇(よみがえ)らせたのが、国際プロレスの吉原功(よしはら・いさお)社長である。

「スネーク・ピットの弟弟子(おとうとでし)にあたるビル・ロビンソンがゴッチさんを日本に呼ぶよう、吉原社長に進言したそうです。吉原社長はゴッチさんの近況を聞いて『もったいない』と。社長はゴッチさんのテクニックの高さを認めていましたし、アメリカではウケなくても、じっくり試合を観て楽しむ日本の目の肥えたファンには好まれるとわかっていたんでしょうね。

 ゴッチさんはプロレスのリングには上がっていませんでしたが、ハワイで若者を鍛えるかたわら、自らもトレーニングを続けていました。北京オリンピックの後だったかな、京子と家内と3人でハワイへ行ったとき、当時ゴッチさんの指導を受けていたという方からお話をうかがいました」

 ゴッチは1971年3月31日に開幕する「第3回IWAワールド・シリーズ」に参戦するため来日。日本プロレスの「第13回ワールドリーグ戦」に対抗すべく、吉原功は錚々(そうそう)たる外国人レスラーを呼び寄せたが、カナダ代表のドクター・デスとトリニダード・トバゴからの留学生・黒潮太郎以外は、ゴッチをはじめヨーロッパ出身またはヨーロッパで活躍するレスラーばかりであった。

 集まったメンツは、第1回・第2回優勝者のビル・ロビンソン、「大巨人」モンスター・ロシモフ(後のアンドレ・ザ・ジャイアント)、シーン・リーガン、バスター・マシューズ、マグナ・クレメント、ジャック・クレインボーンなど。それら外国人レスラーを迎え撃つのはラッシャー木村、グレート草津、サンダー杉山といった国際プロレスの主軸たち。ストロング小林とマイティ井上は海外遠征中だった。

 シリーズ最大の注目は、『"人間風車"ビル・ロビンソンvs."無冠の帝王"カール・ゴッチ』のスネーク・ピット兄弟弟子対決。ともに業師(わざし)であるだけでなく、激しさや怒りを前面に押し出して戦う32歳のロビンソンと、冷静沈着に淡々と相手を仕留める46歳のゴッチがどんな勝負を魅せてくれるのか――。夢の対決に、日本中のプロレスファンは大いに盛り上がった。

(つづく)
【連載】アニマル浜口が語る「国際プロレスとはなんだ?」

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