パリ五輪男子1万m選考会で葛西潤が躍動! 創価大時代の箱根駅伝で味わった苦悩と成長

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi

葛西潤はレース終盤で盤石の強さを見せつけた photo by AFLO葛西潤はレース終盤で盤石の強さを見せつけた photo by AFLOこの記事に関連する写真を見る

 パリ五輪代表選手選考を兼ねた日本選手権1万mが5月3日、静岡スタジアムで行なわれ、男子は箱根駅伝で近年、創価大の上昇期を支えてきた葛西潤(旭化成)が日本代表経験のある優勝候補たちを抑え、自己ベストを約20秒近く更新する日本歴代4位の27分17秒46で初優勝。男子長距離戦線に、その名を大いに轟かせた。

【ケガの多かった大学時代】

 箱根駅伝ファンには、区間上位に来た時の印象の強い葛西だが、大学時代はケガとの戦いの繰り返しだった。

 関西創価高3年時の2月に日本選手権クロカンU20で優勝し、世界クロカン代表にもなった葛西は、創価大ではチーム史上初の実績を持ったスーパールーキーとして入学。1年目から大きな期待を寄せられていた。

 だが、春先からケガが続き、急ピッチで仕上げて箱根駅伝に出場したものの1年時は6区で区間16位。直後の2月下旬からケニア合宿も経験して迎えた2年時は新型コロナ感染拡大でレース出場の機会は少なかったが、3区を任された2度目の箱根では区間2位。

その時、区間の序盤で東海大1年の石原翔太郎に抜かれたが、動じることなくその後自分のペースでレースを展開した姿に、榎木和貴・創価大監督が「冷静だった」と好評価を与えるものだった。チームはその後勢いに乗り、4区で先頭に立ち、往路優勝。復路も最終10区残り3kmまでトップを突っ走る総合2位と周囲を驚かせた。

 大学3年目は、その箱根での激走の反動から、左足底の筋膜炎で10カ月ほど走れずに長期離脱。11月の記録会5000mで復帰し、2年ぶりの1万mでは28分43秒40の自己新を出したが、箱根は1区で区間15位と力を出しきれなかった。

 最終学年は、アップダウンはありながらも過去3年に比べると通年で力を出せたシーズンとなった。3年時最後の3月には日本選手権クロカンで1位まで5秒差の2位、4月の日本学生個人選手権では優勝を果たしワールドユニバーシティゲームズ(学生の総合競技世界大会)の代表権を獲得した。学生個人のあと2カ月ほど走れない時期はあったが、駅伝シーズンに入ると、11月の全日本大学駅伝ではエース区間の2区で駒澤大のスーパールーキー・佐藤圭汰との競り合いを制し、区間新記録で区間賞を獲得とその存在を大いに知らしめた。

 だが、往路の主要区間を走るはずだった最後の箱根は、本番の3週間前に左スネの疲労骨折が判明。「初めてのケガの箇所だったので、痛みが出てもあまり気にしないで放置していたら悪化してしまった。自分の判断ミスでした」と振り返るが、チーム状況のなかで起用された7区で本領を発揮した。

 チームが往路10位と想定外の展開となるなか、6区の濱野将基(4年)が総合6位まで順位を上げてくれた勢いをさらに加速させるため、「後半どうせ苦しむなら、前半から攻めていこう」と区間新記録ペースで突っ込んだ。「最後は想像以上にきつかった」という走りになったが、明治大の杉彩文海(3年)と同タイムで区間賞を獲得し、順位も5位に上げて、最終的には8位。シード権獲得に貢献し、日本人エースの意地を見せた。

 最後の箱根を終えたあと、葛西はこのように振り返っていた。

「本当にケガにつきまとわれた4年間で、トータルで見たら2年分も走っていないのではないかというほど、ケガの期間が長かった。それでも今回のように、最後の最後まで待ってくれる監督がいたし、信頼してくれる同期やスタッフ陣、支援してくれる人たちがいたから4年間走りきることができた。本当に感謝しかない4年間でした」

 そして葛西は、その経験を旭化成入社後、今回の日本選手権に生かした。

1 / 3

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る