【国際プロレス伝】「人間風車」2種類のダブルアーム・スープレックス (2ページ目)

  • 宮崎俊哉●取材・文 text by Miyazaki Toshiya
  • photo by Nikkan sports/AFLO

 その「ロビンソン教室」は1968年のワールドチャンピオン・シリーズ終了後から1969年5月まで開設。マイティ井上寺西勇などを指導し、その後も来日するたびに将来性の豊かな若手をコーチした。1969年8月に入門してデビューしたばかりのアニマル浜口も徹底的に鍛え上げられたという。

「プロレスに入ったばかりの僕にも丁寧に指導していただき、今でもホント感謝しています」

 その後、バーン・ガニアがプロモーターを務めるAWA(アメリカン・レスリング・アソシエーション)と国際プロレスが提携したのを機に、ロビンソンは1971年にアメリカへと進出。ただ、AWAを主戦場としながらも来日を続け、国際プロレスのリングに上がった。

 第2回ワールドチャンピオン・シリーズでは、決勝戦でストロング小林を破って連覇。1971年の第3回大会ではわずかなポイント差で怪物モンスター・ロシモフ――後のアンドレ・ザ・ジャイアントに優勝を奪われるも、スネーク・ピットの先輩カール・ゴッチも加えた3人で熱戦を繰り広げ、プロレスファンを大いに沸かせた。

「1972年2月からと1976年6月からの2度、武者修行でアメリカとカナダに渡った僕もAWAで戦っていたことがあり、シカゴやデトロイトの控え室でビル・ロビンソンと一緒になったことが何度かありました。だけど、戦うことができたのは1度だけ。今、思うと残念ですね」

 1974年5月26日、愛知・豊田市体育館でロビンソンはなんと金網デスマッチを敢行。マイティ井上と組み、セーラー・ホワイト&レーン・ゴルト組を撃破した。

 そして同年6月3日、東京・後楽園ホールでラッシャー木村を破ってIWA世界ヘビー級チャンピオンに返り咲いたロビンソンは、11月20日に東京・蔵前国技館でバーン・ガニアのAWA世界ヘビー級王座にも挑戦。61分3本勝負の結果は1−1でガニアが王座を防衛したものの、外国人同士のAWA戦は日本初の出来事だった。

 この試合を、ビル・ロビンソンの日本における「ベスト・バウト」と評するファンも多い。しかしながら、これがロビンソンにとって、国際プロレスでの最後の試合となった。ちなみに翌11月21日、大阪府立体育館で行なわれたAWA世界ヘビー級チャンピオンのバーン・ガニアとIWA世界ヘビー級チャンピオンのマイティ井上が戦ったダブルタイトルマッチを裁いたのは、そのロビンソンである。

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