【国際プロレス伝】アメリカ遠征で育まれたアニマル浜口のラブロマンス (2ページ目)

  • 宮崎俊哉●取材・文 text by Miyazaki Toshiya
  • photo by AFLO, Sano Miki

『マウント富士』というジャパニーズレストランがあって、香港と商いをしていた日系人の方に生まれて初めて豚足というものをご馳走になりました。今と違ってまだ人種差別の強かった時代でしたが、特に意地悪されたこともなかったですね。ましてや事故にあったり、食えないなんてことはまったくなかった。英語もできないままアメリカに行ったけど、3ヵ月もすれば相手が言っていることがわかってきたし。最後は英語でケンカもしてましたよ」

 当時のオマハにはバーン・ガニアのほかに、ニック・ボックウィンクルなどAWAのスーパースターが集まり、リングは華やかだった。

「グレッグ・バレンタインという若手選手も前座で出てましたね。会場が盛り上がるから、僕たちもやりやすかったですよ。僕は上背がないから、とにかくナメられないように上半身をパンパンにしてリングに上がりました。あとは自分の勘で会場の雰囲気をすぐに察知して、どう試合を運んでいけばいいのか考えて。それがプロレスの醍醐味ですからね。

 その間も草津さんとは、言いたいことを言える関係でした。もちろん、先輩として尊敬していたし、常に立てていましたけど、ときには『ウエイトトレーニングもしてください!』なんて生意気なことを言ったりもして。草津さんがアスリートとして、プロレスラーとして持っているものが僕はうらやましかったですし、もったいないと心の底から思っていましたから。もっと上半身を鍛えれば、間違いなく世界一のレスラーになれると信じていました」

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