【視覚障害者柔道】ロンドンパラリンピック代表内定
~半谷静香を強くした「東日本大震災」 (2ページ目)
その中で最も大きな出来事は、やはり小川道場に来たことだった。奇しくもきっかけは、2011年3月11日。東日本大震災である。
福島県いわき市に実家がある半谷は当時筑波技術大学で、卒業を目前に控えていた。ところが震災の影響で、春から予定していた地元での就職の話が消え、4月以降の居場所がなくなった。しかも地震から2日後に初めて家族と連絡が取れたときに、実家も地震の被害を受けて避難することになったと聞き、帰ることもできない。4月にはトルコで世界選手権が控えていたが、練習もできず、帰る場所すらないのにそれどころではないということで辞退せざるを得なかった。
だがそれでもロンドンパラリンピックを諦めようとは思わなかった。一番優先したいことは、すでに決まっていたのだ。
そこでまず大学の先生に相談した。就職先もなくなり、帰る家もない。家族も頼りたいけど頼ることができない。だがロンドンのために柔道は続けたい。そして紹介されたのが、あの小川直也が道場長を務める小川道場だった。これほどまでの専門家に指導を受けるのは、半谷にとって初めてのことである。だからこそ思う。
「震災は本当に多くの人にとってはよい出来事ではなかったかもしれないですけど、私にはチャンスにもなった出来事でした」
無論、当初は焦りや困惑、不安があった。だがひとつの確信を得た。
"なんでも自分から動き出さなきゃダメだ"
半谷にはかつてなかった自立心が芽生えていた。
かつて半谷は練習好きではなく、柔道は日々辞めたいと思っていた。中学の時も高校の時も、卒業したら辞めると決めていた。さらに北京が内定取り消しになったときも、もうやらないと決めた。それでも毎度のように、いつの間にか続けていた。
「自分には元々何もなかったんです。得意なものもなかったですし、勉強だって得意じゃない。コミュニケーションも得意じゃない。自分に自信もなかったです。でもやっぱり柔道で何もなかったところから色々得ることができたんです」
「確かに今は勝つとか負けるということを、すごく意識しています。でもどっちかというと柔道を通して成長できる伸び幅だったりとか、人との出会いだったり、そっちのほうが嬉しいから私は柔道を続けられているのかなって思います」
とにかく自分に対する負い目にも似た感情を抱いていた半谷だが、柔道はそれを払拭するための手段でもあった。
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