父は鹿島などでプレーしたJリーガー 女子バレー賀谷明日光が明かす、Vリーグでの「仕事とプレーの両立」の大変さ (2ページ目)

  • 中西美雁●取材・文 text by Nakanishi Mikari
  • 松永光希●撮影 photo by Matsunaga Koki

――高校の時は1年生の時からレギュラーだったんですか?

賀谷 いえ、3年生になってから出られるようになりました。春高にも出ましたが、シード校に負けたんじゃなかったかと思います。

――高校時代に思い出に残っていることはありますか?

賀谷 学校には下宿もありましたが、そこには入らずに自宅から通っていて。すごく遠かったので、寝る時間が短かったのがつらかったですね。練習も厳しかったですし、苦しかった思い出が多いかもしれません(笑)。

――ちなみに、Vリーガーになろうと思ったきっかけは何だったんですか?

賀谷 「スポーツ一家」で育ったので、「できるだけ上を目指そう」というマインドがあったんじゃないかと。両親からも、「最初からできないって決めつけなくてもいい。自分がやりたいことを目指していい」と言われていたので、目標が自然とVリーガーを目指すことになったんだと思います。

――そして高校卒業後、関東大学バレーボール連盟1部の東京女子体育大学に進学します。

賀谷 入学までは、けっこういろいろありました。大学に進学するとなると当然お金もかかるので、いろんな補助をいただけると提案をいただいていた大学に進もうかと考えていました。でも、三者面談の時にバレー部の監督から「本当にそれでいいのか?」と問われて。高い目標を立てて、強豪の大学でやりたい気持ちもあったはずなのに、諦めていたことに気づいたんです。

そこで「やります」と答えたら、「東京女子体育大だったら紹介できるよ」とのことで、バレー部の練習にも参加させてもらいました。そうしたら、「うちに来てもらいたい」と。自分のやりたいことに近づけるかなと思い、進学することにしました。

――それが、Vリーグ2部のGSS東京サンビームズ入団へとつながるわけですね。大学でのプレーはどうでしたか?

賀谷 1年生の後半で使ってもらえるようになったんですけど、左ひざの半月板を損傷してしまって。それで手術をして3カ月でチームに戻ったんですが......起用してもらえる機会が少なくなって、気持ち的には難しかったです。

4年生でも状況はあまり変わらなかったんですが、進路を考えた時に、知り合いもいるGSSになんとか行くことはできないかと思って。その知人にお願いして練習参加させてもらい、そこでプレーを見てもらって入団できることになりました。

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