栗原恵が語った引き際の美学。「体がベストな状態の時に、自分の意思で」 (2ページ目)

  • 中西美雁●取材・文 text by Nakanishi Mikari

――つらい思いもあったと思いますが、「そこで逆にバレーボールが好きになった」とも話されていましたね。

「それまで全日本で戦う時間が長かった分、『それがなくなってしまった自分の価値はどこにあるのか』としばらく悩みました。ですが、全日本選手ではない自分やバレーボールとの向き合い方を見つめる機会になり、今思えば"純粋にバレーボールが好き"という気持ちを思い出すきっかけになったんだと思います」

2004年アテネ五輪に出場して以降も、全日本で長らく活躍した栗原  photo by Sakamoto Kiyoshi2004年アテネ五輪に出場して以降も、全日本で長らく活躍した栗原  photo by Sakamoto Kiyoshi――そして2012年の7月には、岡山シーガルズに移籍しますが、決断の決め手はどこにあったのですか?

「岡山シーガルズの河本(昭義)監督から、『1年でもいいから一緒にやろう』と熱烈なオファーをいただいたんです。河本監督は、高校時代からずっと声をかけ続けてくれていました。そこまで必要としてくれる幸せを感じて、『そんな監督のためにバレーをやってみるのもいいのかな』と入団を決意しました。

岡山はイベントなどでファンの方と接する機会が多く、そこで温かい言葉をたくさんいただきました。"全日本の栗原"じゃなくなったのに、たくさんの方が会いに来てくれたり、サインを求めてくれたりするのを見て、『バレーボールともう一度しっかり向き合ってみよう』と思えるようになったんです」

――そのあたりから、試合中でも栗原さんの表情が柔らかくなったように感じたのですが。

「全日本では、『エースとしてコートに立つからには、笑ってはけない』と勝手に思っていましたからね。メディアで報道されるような私のイメージに、自ら寄せていった部分もあると思います。でも、全日本のことを気にしなくなってからは、後輩と接する時なども"そのままの自分"でいるようにしたんです。同級生や友達と接するようにフラットに接していたら、若い選手たちも自分の考えを話してくれるようになって、すごくいい関係が築けるようになりました」

――2006年あたりから度重なるケガとも戦ってきましたが、振り返っていかがですか?

「ケガによって『引退しなくちゃいけないのかな』と思うことはたくさんありました。最初に左ひざをケガした時は、手術やリハビリの大変さをあまり知らなかった分、すごく前向きに考えることができたんです。でも、2回、3回とケガ重ねていくごとに、『前の体とは違う体なんだな』『またやってしまった。コートに戻れるだろうか』という不安が増していきました。それでも、病院のリハビリ室に行くと、同じくリハビリを行なう方たちには『大丈夫、治るよ』『メグちゃん、いつも見てたよ』と声をかけてもらえて。そこで狭くなっていた視野を広げることができ、コートに戻ることができたんだと思います」

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