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「オールブラックスに最も近づいた男」坂田好弘は700トライも積み重ねたラグビー殿堂入りのレジェンド (3ページ目)

  • 斉藤健仁●取材・文 text by Saito Kenji

【坂田をオールブラックスに呼べ】

 世界に「サカタ」の名を広めた走り屋は、その向上心をさらなる高みに向ける。

「弱くするのも強くするのも自分自身。自分の力をニュージーランドで試してみたかった」

 1969年、坂田は所属する近鉄に無給休暇という形で許可をもらい、単身でニュージーランドに乗り込んだ。坂田はニュージーランドのなかでも特にラグビー熱の高い地域、カンタベリーを留学先に選ぶ。

 留学先での愛称は「デミ」。目が大きかったために学生時代は「デメ(出目)」と呼ばれていたが、ニュージーランドでのチームメイトが身長の小さい坂田を見て「DEMI(半分)」だと勘違いして名づけられた。今でも坂田は世界各国で「デミ・サカタ」の愛称で親しまれている。

 カンタベリー大学のクラブに所属した坂田は、出場した27試合で30トライを記録。カンタベリー州代表選手としてプレーし、日本人初のニュージーランド州代表選手権1部リーグ選手となった。さらにニュージーランド大学選抜やNZバーバリアンズにも選出されるなど、破竹の活躍を続けた。

「坂田をオールブラックスに呼べ!」

 地元メディアが声高に報じるほど、ラグビー王国で坂田が与えた衝撃はすさまじかった。ただ、当時のルールで日本人がオールブラックスに選ばれるには、ニュージーランドで2年間プレーしなければならなかった。周囲から「もう1年、ニュージーランドでプレーして」と説得されたものの、坂田は「言葉も通じず、日本食もなかった」ため、1年で日本に戻ることにした。

 帰国後も坂田は、走り続けた。日本代表ではイングランドやフランスといった強豪からトライを奪取。そして1974年の日本選手権では近鉄を優勝に導き、それを最後にスパイクを脱いだ。

 現役引退後、坂田は指導者の道へ進む。大阪体育大ラグビー部の監督に就任し、関西大学Aリーグを5度制覇。退任する2013年まで数々の名選手を育成した。また、関西ラグビー協会会長、日本ラグビー協会副会長として、ラグビーの普及に大きく寄与した。

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