「オールブラックスに最も近づいた男」坂田好弘は700トライも積み重ねたラグビー殿堂入りのレジェンド (2ページ目)
【空飛ぶフライング・ウイング】
高校卒業後は同志社大に進学。関東勢が上位を占める大学ラグビーにおいて、同志社は関西で唯一無二の強豪校だった。その恵まれた環境で坂田の能力はさらに飛躍し、1年時と3年時は日本選手権で社会人チームの近鉄を破り、日本一にも輝いている。
日本代表に初めて選出されたのは大学2年生の時。当時は今ほど日本代表の試合は多くなかったが、1963年から10年間で16キャップを重ねた。
坂田のラグビー人生において、クライマックスは1968年〜1969年だろうか。身長168cmと小柄な体格ながら、ステップで相手のバランスを崩しながら直進する「イン・アンド・アウト」の技術を武器に、坂田は世界にその名を轟かせた。
1968年、日本代表を率いる大西鐵之祐監督は「展開・接近・連続」というテーマを掲げていた。そのスタイルがどこまで世界に通用するのか、ニュージーランド遠征で腕試しを行なった。
遠征最初の4試合は連敗が続くも、その後は3連勝。ポバティベイ州代表戦では坂田が5トライを挙げて23-15で勝利(当時トライは3点)し、前傾姿勢で飛ぶように走る坂田の姿を現地新聞は「フライング(空飛ぶ)ウイング」と称えた。
そして、この遠征のメインマッチとなるオールブラックス・ジュニア戦で奇跡が起きる。出場した相手選手の多くがのちにオールブラックス入りした23歳以下チームに、日本はスピードを武器に臆することなく真っ向勝負し、坂田が4トライを奪取。23-19でオールブラックス・ジュニアを下し、世界中のラグビーファンを驚かせたのだ。
「6つのトライのうち、4つを挙げることができた。誰もニュージーランドのチームに勝つとは思っていなかった時代に勝ちました」
遠征10試合で14トライ。この活躍が評価された坂田は、ニュージーランドのラグビー年鑑で「プレーヤー・オブ・ザ・イヤー」受賞者5人のひとりに選ばれた。
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