宮崎友花が世界の舞台へ バドミントン女子・史上5人目の高校生王者となった新星の可能性 (2ページ目)
それに、バックハンドのサーブも相手がうまくかわして変化をつけてきた。自分もまだ、バックハンドのサーブに慣れていない面もあるので、そこで少し崩れてしまう場面があったかなと思います」(宮崎)
しかし、第2ゲーム以降は相手の攻めにも対応。第2ゲームを21対12で取ると、第3ゲームもスタートから7連続ポイントを奪って21対11と圧倒し、ゲームポイント2-1と逆転勝ちを決めて、決勝へ駒を進めた。宮崎が語る。
「1ゲーム目は落としてしまいましたが、わかりやすくバックの奥を攻められたので、2ゲーム目からはそこをしっかり頭に入れてプレーした。あと、1ゲーム目は少し受け身になる部分もあったんですが、(2ゲーム目からは)自分からしっかり球を振り分けたり、変化をつけたりできた。それで、相手が崩れてくれたのかなと思います」
決勝戦では、世界ランキング23位の仁平菜月(ヨネックス)と対戦。苦手なコートとなった第1ゲームを21対18で先取すると、第2ゲームも21対14で奪取。ゲームカウント2-0で勝利し、2014年の山口以来、史上5人目の高校生王者となった。
史上5人目の高校生チャンピオンとなった宮崎友花 photo by Kishimoto Tsutomuこの記事に関連する写真を見る「小さい頃は卓球をやっていた」という宮崎だが、「運動神経があるほうで、『テニスはどう?』となったけど、力がなかったので『(卓球とテニスの)間をとってバドミントンをやってみれば』とお母さんに言われて、バドミントンを始めた」。
ただ、「最初に入ったチームは強くて、監督も怖くて、なかなかコートに立たせてもらえずに泣いてばかりの日々だった」が、それでも小学校4年生の頃には全国大会に出場するようになる。
以降、着実に力をつけていくと、中学校進学の際には「柳井商工高の竹光唯至監督に指導してもらいたい」と、生まれ育った大阪から山口県の柳井市にバドミントン留学。宮崎自身が「中学3年生になって初めて全国優勝をしたときはすごくうれしかったし、柳井に来て本当よかったなと思った」と振り返るように、順調に成長していった。
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