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世界卓球の理不尽な「合同コリア結成」は
スポーツの本質をねじ曲げた (2ページ目)

  • 城島充●文 text by Jojima Mitsuru

 1988年5月に新潟で開催されたアジア卓球選手権では、大韓航空機爆破事件で国家公務員の日本への入国を禁止していた北朝鮮の選手団を、「政治的な活動を一切しない」という条件付きで参加させた。しかし、朝鮮総連などが主催するパーティーに北朝鮮選手団が参加したことが「政治的活動」とみなされたことに北朝鮮の選手団が反発、大会途中で帰国した。

 翌日の朝刊には『友好卓球 政治のネット』『つまずいた荻村構想』という見出しが躍ったが、荻村さんはあきらめなかった。スポーツをきっかけに、分断された2つの国を結びつけることができると信じていたのである。

 その最大のチャンスを1991年、千葉の幕張で開催される世界選手権に求めた荻村さんは、韓国に20回、北朝鮮にも15回足を運び、統一チーム結成を訴え続けた。

 当時、その理由を尋ねた新聞記者に荻村さんはこう答えている。

「もし、終戦後のヤルタ会談で日本の分断が決まっていたら、当時、中学1年生だった私も何とか日本をひとつにしようと頑張ったはずです。スポーツが政治を動かすことはできない。でも、援護射撃はできる。スポーツの本質を曲げずに、政治が歩み寄りやすい場を設定する。それがスポーツ側にいる人間の力量です」

 当時、両国の関係者による南北スポーツ会談は統一チーム結成に向けて前向きな議論を続けたが、調印式の直前になってこれまでと同じように紛糾した。

「朝鮮戦争が休戦中なのに、どちらかが軍事境界線をまたいで合同合宿を行なうことはできない」「合宿でコンビネーションを高めないと、大会で勝てない。統一チームとして世界に恥をさらすわけにいかない」と、極めて現実的な難題が持ち上がると、荻村さんは日本の自治体関係者にすぐ連絡をとり、長野、長岡、千葉の3カ所で合同合宿をするプランを提示した。他の国の理解を得たうえでITTFの理事会にも議題をあげ、承認を得て統一チーム「コリア」の世界選手権参加を実現させたのだ。

「大会の前日までは、最大限の優遇をします。でも、大会が始まったら、あなたたちは(ITTFに加盟している)108協会のひとつです。いっさい優遇はしませんから」

 大会の開幕直前、荻村さんは南北の指導者や選手たちにそう告げるのも忘れなかった。

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