NBA伝説の名選手:マイケル・ジョーダン 不世出の世界的アスリートへ昇華した勝者の流儀〜幼少期からNBA初王座まで〜 (2ページ目)
【衝撃のデビューから苦闘の末に辿りついたNBA王座】
1986年のセルティック戦でマークした63得点は現在もNBAプレーオフ記録 photo by Getty Images
ドラフト指名後、1984年ロサンゼルス五輪のアメリカ代表として金メダルを獲得後にNBAデビューを果たした。開幕9試合目のサンアントニオ・スパーズ戦で45得点を奪うなど、ジョーダンは身体能力を最大限に活かして得点できる選手であることを証明。33試合で30得点以上という活躍もあり、文句なしの新人王に選ばれた。
2年目は足を骨折して長期離脱を強いられたが、シーズン終盤に復帰すると、ボストン・セルティックスとのプレーオフ1回戦、再延長の末に惜敗した第2戦でジョーダンは63得点を奪ったのである。これは現在も破られていないプレーオフの1試合最高得点であり、セルティックスの伝説と呼ばれるラリー・バードは試合後、「彼はマイケル・ジョーダンに化けた神だ」とコメントしたほどだ。
スーパースターへの階段を登り始めたジョーダンだったが、ブルズをプレーオフで勝たせることができずにいた。特に「バッドボーイズ」と呼ばれたデトロイト・ピストンズは、NBAの頂点に立つために乗り越えなければならない大きな壁として立ちはだかる。ブルズは1988年のカンファレンス準決勝、1989年と1990年はカンファレンス決勝でピストンズの前に敗退した。
ピストンズの壁を越えるべく、ジョーダンは個人トレーナーのティム・グローバーとの出会いでより強靭な身体を作ることを決断すると、筋力アップの効果によって体重も89kgから95kgまで増加。1991年のカンファレンス決勝では4連勝でピストンズのNBA3連覇を阻んだ。そして、マジック・ジョンソンとの対決で大きな注目を浴びたNBAファイナルでは平均31.2点、11.4アシストとブルズを牽引。4勝1敗でレイカーズを下し、初のチャンピオンシップを獲得したのである。
「とても喜ばしいことで、夢が叶ったようなものだ。ここまで来るために一生懸命努力し続けてきたけど、ついに現実になったんだ」と語ったジョーダンは、目に涙を溜めながら優勝トロフィーを抱いていた。
つづく
【Profile】マイケル・ジョーダン(Michael Jordan)/1963年2月17日生まれ、アメリカ・ニューヨーク州出身。1984年ドラフト1巡目3位指名。
●NBA所属歴:シカゴ・ブルズ(1984-85〜1992-93、1994-95〜1997-98)―ワシントン・ウィザーズ(2001-02〜2002-03)
●NBA王座6回(1991〜93、96〜98)/シーズンMVP5回(1988、91、92、96、98)、/ファイナルMVP6回(1991〜93、96〜98)/オールNBAファーストチーム10回(1987〜93、96〜98)/最優秀ディフェンス選手賞1回(1988)/オールディフェンシブ・ファーストチーム9回(1988〜93、96〜98)/新人王(1985)/オールスターMVP3回(1988、96、98)・オールスター・スラムダンク優勝2回(1987、88)
●主なスタッツリーダー:得点王10回(1987〜93、96〜98)/スティール王3回(1988、90、93)
●五輪代表歴:1984年ロサンゼルス(優勝)、1992年バルセロナ(優勝)
*所属歴以外のシーズン表記は後年(1979-80=1980)
著者プロフィール
青木 崇 (あおき・たかし)
1968年群馬県前橋市生まれ。1992年から月刊バスケットボールとHOOP誌の編集者を務めた後、1998年に独立して渡米。アメリカ・ミシガン州を拠点にNBA、NCAA、数々のFIBA国際大会を取材。2011年から拠点を日本に戻して活動を続け、Bリーグの試合で解説者も務めている。
2 / 2