NBA伝説の名選手:ケビン・ガーネット 稀代のビッグオールラウンダーが貫いた激しい闘争心と献身的なプレー
オールラウンダーとして一時代を築いたガーネット photo by Getty Imagesこの記事に関連する写真を見る
NBAレジェンズ連載21:ケビン・ガーネット
プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることはない。世界中の人々の記憶に残るケイジャーたちの軌跡を振り返る。
第21回は、そのオールラウンドなプレーで多くの人々を魅了したケビン・ガーネットを紹介する。
【高卒ルーキーとしてウルブズで活躍】
昨季、ミネソタ・ティンバーウルブズはウェスタン・カンファレンス3位の56勝26敗(勝率68.3%)の成績を残し、プレーオフではカンファレンス・ファイナル進出を果たした。
ウルブズにとって、この戦績は2003-04シーズンの58勝24敗(勝率70.7%)に次ぐ球団史上2位、プレーオフの戦績も2004年と並ぶ2度目の快挙だった。今から20年前、当時のウルブズを引っ張っていた選手が、今回紹介するケビン・ガーネットだ。
1976年5月19日、サウスカロライナ州グリーンビルで生誕したガーネットは、高校へ入学する頃にはすでに地元で名の知れた選手になっていた。日ごろ、母シャーリーの前でおとなしかったガーネットだが、母がのちに息子のバスケットボールの腕前を知ると、一番身近で熱烈な批評家かつ大ファンになっていく。ガーネットがコート上で見せてきた溢れんばかりのエナジーは、母親譲りだったようだ。
「母はものすごく感情の起伏が激しく、情熱的な女性なんだ。自分の仕事や仕事のクオリティを大切にしていた。私はそんな彼女から影響を受けたんだと思う。自分の激しい一面を責める人がいたとしても、私は母シャーリーに感謝したい」
3年次まで地元のモールディン高校に通っていたガーネットだったが、最終学年でイリノイ州シカゴにあるファラガット・キャリア・アカデミー高校へ転校。そこで平均25.2得点、17.9リバウンド、6.7アシスト、6.5ブロックという驚異的な成績を残し、チームを28勝2敗の成績に導いた。
当初ガーネットはメリーランド大学への進学を考えていた。ただ、1995年にシカゴで開催されたピックアップゲームでNBA選手たちともプレーし、シカゴ出身のアイザイア・トーマス(元デトロイト・ピストンズ)から「君なら今すぐにでもリーグでプレーできるんじゃないか」とお墨付きをもらっていた。高校のテストでいい点を取れず、カレッジに進んでも学力不足が理由で最初の1年間はプレーできないこともあり、進路先をNBAドラフトへと切り替えた。
当時、高校卒業から直接NBA入りしたのは1975年以来のことだったが、1995年のドラフト全体5位でウルブズから指名を受ける。1年目の1995-96シーズンに平均10.4得点、6.3リバウンド、1.8アシスト、1.6ブロックと上々のシーズンを送ると、翌1996-97シーズンには平均17.0得点、8.0リバウンド、3.1アシスト、1.4スティール、2.1ブロックとオールラウンドな働きでオールスターに選出され、ウルブズはチーム創設8年目にして初のプレーオフ出場を飾った。
だが、1998年にガーネットがウルブズと当時NBA史上最高額の6年1億2600万ドル(当時のレートで約163億8000万円)もの超巨額契約を締結したことで、その契約がネックになり、サラリーキャップ(NBAに定められたチームのサラリー総額上限)の関係もあり、チームは満足に補強もできず、7年連続でプレーオフ1回戦敗退と苦しんだ。
それでもガーネットは1998-99から2006-07まで9シーズン連続で平均20.0得点、10.0リバウンド以上を叩き出し、サム・カセール(元ヒューストン・ロケッツほか)、ラトレル・スプリーウェル(元ニューヨーク・ニックスほか)を加えた2003-04シーズンには平均24.2得点、13.9リバウンド、5.0アシスト、2.2ブロックをマーク。チームを公式戦でウェスタンカンファレンス1位、プレーオフでも初めて1回戦突破を果たしカンファレンス決勝進出に導くなど活躍で、シーズンMVPを受賞した。
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著者プロフィール
秋山裕之 (あきやま・ひろゆき)
フリーランスライター。東京都出身。NBA好きが高じて飲食業界から出版業界へ転職。その後バスケットボール雑誌の編集を経てフリーランスに転身し、現在は主にNBAのライターとして『バスケットボールキング』、『THE DIGEST』、『ダンクシュート』、『月刊バスケットボール』などへ寄稿している。