天才ケーシー・ストーナーの歩み。「よく転ぶライダー」から王者に (3ページ目)

  • 西村章●取材・文 text by Nishimura Akira
  • 竹内秀信●撮影 photo by Takeuchi Hidenobu

 ストーナーは、ときおり上位陣の争いに顔をのぞかせることもあったものの、それよりも、転倒したライダーの名前を確認してみたらこの選手だった、ということが多かったように記憶する。いずれにせよ、見慣れない名前だったので、プロフィールを知人に尋ねたところ、フル参戦を開始したばかりの新人オーストラリア人選手で、いきなり中排気量クラスへデビューしたらしい、ということがわかった。

 ルーキーの登竜門である125ccクラスをスキップし、いきなり中排気量の250ccクラスにデビューしたのだ。ストーナーの自伝『Pushing the Limits』(日本語版未発売)によれば、125ccクラスにはすでにシートの空きがなかったためだという。だが、ストーナーがスペイン選手権に参戦した時代に、チームを指導していたアルベルト・プーチ(元500ccクラスライダー・現レプソルホンダチームマネージャー)がチェッキネロに推薦し、LCRの250ccチームと契約を交わすことになったのだ。

 バイクナンバーは、ストーナーの子どもの頃からお気に入りだった66番を使用するつもりでいたようだが、他の選手がすでに使っていた。そこで、スペイン選手権時代にプーチが割り振った27番を使うことになったという。ちなみにこの時、26番を使用していたのが、後に生涯の好敵手となるダニ・ペドロサだ。二人はともに、これらの番号を引退するまで愛用し続けることになる。

 グランプリデビューを果たした02年シーズンは、何戦かでシングルフィニッシュを果たしたものの、飛び抜けて目立つようなパフォーマンスを発揮した訳ではなかった。翌03年は、125ccクラスにスイッチ。前年同様にチェッキネロのLCRチームから参戦した。第9戦ドイツGPで2位に入って初の表彰台を獲得した後、鮮烈な印象を与えたのは、キャリア2回目の表彰台になった第12戦リオGP(ブラジル)だった。

 このレースでストーナーは、ペドロサやアンドレア・ドヴィツィオーゾ、ホルヘ・ロレンソたちと最終ラップの最終コーナーまで激しいバトルを繰り広げた。結局ロレンソが優勝し、ストーナーはわずか0.232秒差の2位でチェッカーフラッグを受けた。

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