【木村和久連載】プロを震え上がらせた設計。鬼才ピート・ダイを偲ぶ (2ページ目)

  • 木村和久●文 text by Kimura Kazuhisa
  • 服部元信●イラスト illustration by Hattori Motonobu

 1950年、アリスと結婚。グリーンキーパーを辞め、生活のために保険の外交員を始めたのです。

 この時期だけを切り取って、保険外交員からの転職組と言われていますが、ピート・ダイの長い人生においては、10年弱の出来事です。

 第一、保険の外交員時代もゴルフの腕は衰えず、むしろその腕前はアップしています。1957年には、なんと全米オープンに出場していますからね。しかも、その年に出場したジャック・ニクラウスやアーノルド・パーマーより、ピート・ダイの成績のほうがよかったとか......って、なんだんねん。

 あわよくば、米ツアーの選手になっていたかもしれない。それぐらいの実力があったのです。

 コース設計に目覚めたのは、30歳頃とされ、コース設計会社『ダイ・デザイン社』を興したのは、36歳の時です。その後、スコットランドへ視察旅行。有名ゴルフコースを見て回ります。

 ピート・ダイの代表的エッセンス、線路の枕木やアイランドグリーン、ポットバンカー、ウェストエリア、小さいグリーンなどは、この視察旅行で気に入って、アメリカに戻ってから取り入れたものです。それら、彼のオリジナルとも言われているものは、実はスコットランドにあったコースのアレンジや、それを参考にしたものが多いんですね。

 その当時、コース設計の第一人者は、ロバート・トレント・ジョーンズです。飛距離にこだわり、ロングホールにも池を散りばめたコースを設計。そんな難ホールにおいて、アーノルド・パーマーなどの飛ばし屋が、池越えの2オンを果敢にチャレンジしていく――。そこで成功した選手がヒーローとなり、俗に言う「英雄型デザイン」のコースがもてはやされました。

 そこで、ピート・ダイが考えたのは、距離に捉われない難しさ、です。

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