【男子ゴルフ】石川遼のマスターズ、今までとは違う予選落ちの理由 (2ページ目)

  • 三田村昌鳳●文 text by Mitamura Shoho
  • photo by Getty Images

 2日目。石川は、初日の4オーバーを「なんとかアンダーパーで回ってイーブンに戻そう」ということしか考えていなかったという。風が強く、どの選手もスコアに異変があるという状況。その中で彼は、まっしぐらの攻めのゴルフで勝負したと言える。

 けれども、その直球勝負に、あえなく敗れた。

 彼はこの1年間、マスターズへ向けて自分が足りない技量を埋めていくことに専念し、練習を積み重ね、常にブレない意思と目標を設定してやってきた。だから、素直に負けも認めた。

「去年のマスターズで『自分のゴルフでも通用するんだな』と感じたので、こういう結果になってしまったところはあります。(今年も)通用しなかったということはないと思いますが、ここにピークを持ってきていいものを出せるかどうか、というのも実力のうち。そういう意味では、こういう結果に終わってしまったというのは、これが今の自分の実力だと思います」

 はたして、石川には何が足りなかったのだろう、と誰もが思う。

 本人がそれをいちばん考え、悩む。長いマスコミの囲み取材が終わって、ロッカールームに戻るときに「お疲れさまでした」と僕に声をかけてくれた。そのあまりにも悲しげな表情を見て、思わず口からこう言葉が出てしまった。

「『足りない、足りない』と思い込むだけでは、試合でいいパフォーマンスは出せないと思うよ。今回のプレイを見ていると、足りないのではなく、初日から持っているものすべてを、あふれ出さそうとし過ぎたのでは? あふれてしまっているのだから、足りないじゃないよね? 足りている自分がいるということを忘れてしまったのでは? その気持ちの差で、いいスコアにも悪いスコアにもなる。落ち込まないで自信を持ってね」と。

 すると、彼の硬直した顔の筋肉が、ようやくほぐれて笑顔に変わった。

 スポーツは、結果がすべてである。けれどもその結果は、時として残酷なまでに心を傷めつける。彼が言うように、昨年よりも明らかに成長している。その成長の成果を出したい、という気持ちの焦りが、逆に窮屈なプレイをさせられるはめになったのだと思う。

「ありがとうございました」と彼はしっかりと言ってオーガスタを去った。


三田村昌鳳(みたむら・しょうほう)
1949年2月24日生まれ。週刊アサヒゴルフを経て、1977年に編集プロダクション(株)S&Aプランニングを設立。ゴルフジャーナリストとして活躍し、青木功やジャンボ尾崎ら日本のトッププロを長年見続けてきた。初のマスターズ取材は1974年。今大会で33回目となる。(社)日本プロゴルフ協会理事。

2 / 2

関連記事

キーワード

このページのトップに戻る