ジュゼッペ・シニョーリは右足を使わないファンタジスタ セリエAで3度の得点王に輝いたレフティモンスター (2ページ目)
【ボローニャ移籍で鮮やかに復活】
リーグ2位に終わった1994-95シーズン終了後、パルマから打診があった。
「是が非でもシニョーリがほしい」
悲願のスクデットに向けて、ネヴィオ・スカラ監督の率いるパルマは「レフティモンスター」に白羽の矢を立てた。意外にも交渉は順調に進み、シニョーリの移籍が決まる。
しかし、ラツィオのサポーターが黙っているはずはなかった。クラブ間の決定に異議を唱えた約4000人がクラブハウスに詰めかけ、「シニョーリを手放すな」と働きかける。プレッシャーに屈したラツィオ上層部は考えを一転させ、破談で決着した。
カルチョ・イタリアーノらしいドタバタだとしても、サポーターは愛情を示した。シニョーリもさぞかし感動したに違いない。結果、1994-95シーズンを迎えたシニョーリは3度目の得点王を獲得。彼が吠える横顔を表紙にした『ワールドサッカーダイジェスト』も売れ行きは上々だったのだが......。
ラツィオでの幸福は長く続かなかった。
1997-98シーズンにズベン・ゴラン・エリクソンが監督に就任すると、風向きが変わる。戦略・戦術に不満を漏らし、守備意識も高くなかったシニョーリは、徐々に軽んじられていく。左足は錆びていないが、チームよりも個人を重視したようなパフォーマンスをエリクソンは認めなかった。
結果的にラツィオは、シニョーリをシーズン途中にサンプドリアへ。放り出された稀代のストライカーは新天地でも歯車が合わず、17試合・3ゴールという成績に終わった。
なお、ラツィオは1997-98シーズンにコッパ・イタリアを制すると、アレッサンドロ・ネスタ、シニシャ・ミハイロヴィッチ(ユーゴスラビア)、ディエゴ・シメオネ(アルゼンチン)、パベル・ネドベド(チェコ)などを擁した1999-2000シーズンはスクデットに輝いている。シニョーリにとって、どうにもこうにも巡り合わせがよろしくない。
1998-99シーズン、30歳になったシニョーリはボローニャに新天地を求めた。前シーズンのプレーが芳しくなかったため、「年齢的にも多くは望めない」「すでに終わっている」と下馬評は低かった。
しかし、レフティモンスターは鮮やかに復活する。ボローニャが優勝を宿命づけられたクラブではなく、カルロ・マッツォーネ監督やフランチェスコ・グイドリン監督が選手の個性を重んじたため、シニョーリは自由を謳歌した。3シーズン連続15ゴール。圧巻の得点能力を見せつけた。
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