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デニス・ベルカンプの超絶トラップに全員が酔いしれた アーセナル時代の相棒アンリも絶賛「神の領域に達していた」 (2ページ目)

  • 粕谷秀樹●取材・文 text by Kasuya Hideki

【ファン・バステンの後継者】

 オランダが輩出した技巧派はヨハン・クライフの薫陶を受けているが、ベルカンプもそのひとりだ。

 1985年、アヤックスの監督に就任したクライフは、誰よりもボールコントロールに優れ、ペナルティボックス内でも落ち着いていたベルカンプに興味を抱いた。

 もっともベルカンプは、デビューまで時間はかかった。トップチームに帯同しながら、出場のチャンスはなかなか巡ってこない。エールディヴィジにデビューしたのは17歳の時、1986年12月のローダJC戦であり、初ゴールは翌年2月のハーレム戦だった。

 しかし、クライフが大切に育てていたからこその配慮である。ベルカンプの性格が内向的だったこと、体格があまりにも華奢(きゃしゃ)だったことも考慮し、十分に時間をかけた。「急がば回れ」の好例である。

 その甲斐あって、ベルカンプは成長。1987年のカップ・ウィナーズ・カップ優勝に貢献し、シーズン後にミランへ移籍したマルコ・ファン・バステンの後継者に名乗りを上げる。

 1988-89シーズンは初のふたケタとなる13ゴールを記録。翌シーズンも圧倒的な存在感で5シーズンぶりのリーグ優勝をもたらすと、1990-91シーズンは25ゴールでロマーリオ(当時PSV)とともに得点王に輝いた。

 新監督にルイ・ファン・ハールが着任した1991-92シーズンも快進撃は続く。24ゴールで2シーズン連続のエールディヴィジ得点王。UEFAカップでも6ゴール。アヤックスを優勝に導いた。

 また、ペナルティボックス内の感覚が研ぎ澄まされた1992-93シーズンは26ゴールの荒稼ぎだ。彼の名はヨーロッパ全土に轟き、1993年夏、当時としては高額の20億円でインテルに移籍する。

 30年ほど前のヨーロッパフットボールは、セリエAが中心だった。個人の感性よりも戦術を重視し、結果最優先の闘いが主流だった。ベルカンプに適した環境ではない。

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