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ヨハン・クライフ来日時の衝撃エピソード 試合中に相手選手を指導 バルセロナ監督時代には炎天下のJSL選抜戦も (3ページ目)

  • 後藤健生●文 text by Goto Takeo

【炎天下のバルセロナ対JSL選抜】

 そして、実際、クライフはコーチとしてもすばらしい仕事を成し遂げた。

 1984年にフェイエノールトでのプレーを最後に引退したクライフは、翌1985年にアヤックスの監督に就任(ライセンスを取得していなかったので「テクニカルディレクター」という肩書)。1987年にはカップ・ウィナーズ・カップで優勝した。

 1988年には古巣バルセロナの監督に就任。その後、「ドリームチーム」と呼ばれるチームを構築し、パスをつなぐ攻撃的なサッカーで一世を風靡。バルセロナのサッカーのアイデンティティーを確立したことは広く知られている。

 その「ドリームチーム」を率いてクライフが来日したことがあるのをご存じだろうか? 1990年7月のイタリアW杯直後のこと。「JALカップ」という大会で日本サッカーリーグ(JSL)選抜と対戦した。対戦相手が代表でないのは、同時期に横山謙三監督率いる日本代表は中国・北京で開かれた第1回ダイナスティカップ(現E-1サッカー選手権)に出場していたからだ(3戦全敗)。JSL選抜の監督は元ブラジル代表のオスカー。当時は日産自動車(横浜F・マリノスの前身)監督を務めていた。

 バルセロナにとってはクライフ体制3年目の開幕前で、新チーム立ち上げの段階。しかし、広島での初戦は気温が33度もあり、長旅の疲れが残るバルサは本調子ではなく、試合は1対1の引き分けに終わる。

 そして、東京・駒沢での第2戦。駒沢陸上競技場には照明がないから、キックオフは14時30分。猛暑のなか、炎天下の試合だったのだ。GKにはアンドニ・スビサレッタがいて、中盤の底にはロナルド・クーマン、2列目にミカエル・ラウドルップ、トップにフリスト・ストイチコフ......。ざっと名前を挙げただけでその豪華さが伝わってくるのだが、Jリーグ開幕前の日本ではそれほど大きな扱いはされなかった。

 第2戦ではJSL選抜が柱谷幸一とレナトの得点でリードしたものの、バルセロナがチキ・ベギリスタイン、フリオ・サリーナス(2G)、アモールの得点で4対2と逆転勝利した。

 それにしても、選手としての来日では砂混じりのひどいピッチ。監督としての来日では猛暑のなかの炎天下とは! 日本はクライフに対してなんとも失礼な扱いをしたものである。

 なお、ベギリスタインは1997年から99年まで浦和レッズでプレーした。当時、僕は彼にロングインタビューをしたことがあり、その時に雑談としてこの時の試合について訊いてみた。

「暑かったことだけ覚えているよ」とベギリスタイン。僕も、まさに同感だった。

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著者プロフィール

  • 後藤健生

    後藤健生 (ごとう・たけお)

    1952年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院博士課程修了(国際政治)。1964年の東京五輪以来、サッカー観戦を続け、1974年西ドイツW杯以来ワールドカップはすべて現地観戦。カタール大会では29試合を観戦した。2025年、生涯観戦試合数は7500試合を超えた。主な著書に『日本サッカー史――日本代表の90年』(2007年、双葉社)、『国立競技場の100年――明治神宮外苑から見る日本の近代スポーツ』(2013年、ミネルヴァ書房)、『森保ジャパン 世界で勝つための条件―日本代表監督論』(2019年、NHK出版新書)など。

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