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ヨハン・クライフ来日時の衝撃エピソード 試合中に相手選手を指導 バルセロナ監督時代には炎天下のJSL選抜戦も (2ページ目)

  • 後藤健生●文 text by Goto Takeo

【来日時、試合中に相手選手に指導】

 そのクライフが日本でプレーを披露したのは1980年の11月。北米サッカーリーグ(NASL)のワシントン・ディプロマッツの一員としての来日だった。

 アヤックスで名声を博したクライフは1973年からバルセロナに加わった後、1978年にいったんは引退したが、翌年、現役復帰して北米に活躍の場を移していた(最後はアヤックス、フェイエノールトでプレーして最終的に1984年に引退)。

 1980年と言えば、日本サッカーはどん底から這い上がろうとしている時期だった。3月のモスクワ五輪予選で敗退して下村幸男監督が退任。渡辺正監督が就任したものの同監督は病に倒れ、川淵三郎強化本部長が急遽、暫定監督を引き受けて12月のスペインW杯予選に向けて大幅にメンバーを入れ替えようとしていた。新生日本代表はディプロマッツと2試合を戦い、初戦(福岡)は0対1、2戦目(東京・国立)は1対1と善戦した。

 当時、クライフは33歳。まだ老け込む年齢ではなかったが、利き足である右足を傷めており、フル出場はできない状態だった。そして、ディプロマッツのチーム状態もけっしてよくなかった。

 それでも、クライフはその才能の片鱗だけは見せてくれた。

 ディプロマッツは日本代表との2試合の間に、清水市(現・静岡市清水区)で若手中心の日本代表Bとも戦っていた。「清水」といっても日本平(アイスタ)ではなく、清水総合運動場陸上競技場だ。

クライフ初来日時の試合のチケット(画像は後藤氏提供)クライフ初来日時の試合のチケット(画像は後藤氏提供)この記事に関連する写真を見る 当時の日本のサッカー施設は貧弱で、冬になると芝生は枯れて白くなってしまっていた。しかも、清水のスタジアムは芝生が禿げている部分が多く、そこに砂を入れた、現在では想像もできないようなピッチだった。

「クライフに、こんなグラウンドでプレーさせるのか!」と僕は怒りすら感じた。

 だが、それでもクライフは前半45分間だけだったが、嫌な顔も見せずにプレーしてみせた。右サイドハーフの位置から中央に顔を出して、前線の選手を操る役割だった(試合は1対2でディプロマッツの勝利)。

 アクシデントがあって試合が中断した時のことだ。クライフが、突然、グラウンドの上で自分をマークしていた日本人選手に対して「指導」を始めたのだ。

 身振り手振りで「自分がこう動いたら、キミはこうやってマークすべきだ」と、マークする際の体の向きについて指導しているようだった。

 僕はこれまでサッカーの試合をかなり多く見てきたが、試合中に相手選手に対して本格的な指導をするなどという場面は見たことがない。まるで本当のコーチであるかのように、クライフの指導はかなりの時間続いた(残念ながら、この時クライフに指導を受けたのが誰だったかは記憶にない)。

 これを見て、僕は「ああ、クライフという選手は本当にサッカーが好きなんだなぁ」と感心すると同時に、「彼は将来、有能なコーチになるのではないか」とも思った。

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