板倉滉の新天地ボルシアMGの黄金時代。バイエルンよりオシャレだった

  • 杉山茂樹●文 text by Sugiyama Shigeki
  • photo by Getty Images

 その昔、「ボルシア」と言えばドルトムントではなくMGだった。海外サッカーを語ろうとした時、『ダイヤモンドサッカー』(東京12チャンネル/現在のテレビ東京)が見逃せない番組だった頃。1970年代の話だ。ボルシア・ドルトムントは当時まだ無名というか、弱かったため、ボルシア・メンヘングラードバッハは、本来ならメンへングラードバッハと呼ぶべきところを、「ボルシア」で通っていた。

 ボルシアMGは強かった。その対バイエルン戦こそが、ブンデスリーガ一番の好カードだった。ボルシアMGがブンデスリーガを制したのは1969-70、70-71、74-75、75-76、76-77シーズンの5回。1968-69、71-72、72-73、73-74、79-80、80-81シーズン優勝のバイエルンとは一時期、拮抗したライバル関係にあった。

 判官贔屓をくすぐられるチームだった。大都市ミュンヘンをホームにするバイエルンが、典型的なビッグクラブであるのに対し、メンヘングラードバッハが人口20数万人の小都市であるという両者間の、大小関係にまつわる知識は、まだその時、持ち合わせていなかった。後にそうした背景は詳しく知ることになるのだが、中学生だった当時の筆者にもわかりやすく映ったのは、西ドイツ代表内におけるに優劣だった。

緑が基調のボルシアMGのユニフォームを着た板倉滉緑が基調のボルシアMGのユニフォームを着た板倉滉この記事に関連する写真を見る 西ドイツ代表のスタメンにはバイエルンの選手が多く並んだ。1974年西ドイツW杯決勝のオランダ戦を例にとれば、バイエルンがスタメンに、フランツ・ベッケンバウワー、ゼップ・マイヤー、パウル・ブライトナー、ハンス・ゲオルク・シュヴァルツェンベック、ウリ・ヘーネス、ゲルト・ミュラーの6人を送り込んでいたのに対し、ボルシアMGは、ヴェルティ・フォクツとライナー・ボンホフの2人だけ。ウルフガング・クレフ、ヘルベルト・ヴィンマー、ユップ・ハインケスに加え、10番を背負うギュンター・ネッツァーまでベンチ要員に追いやられたことに、抵抗を覚えずにはいられなかった。

 金髪をなびかせたドイツサッカー史上、最も華のあるゲームメーカー。ネッツァーをひと言でいえばそうなるが、この1974年W杯では控えに甘んじた。彼がピッチに立ったのは、事実上の消化試合となった1次リーグの東ドイツ戦のみ。それも後半途中からの交代出場だった。

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